Nichiren・Ikeda

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日蓮大聖人・池田大作

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御義口伝巻上  (6/43) 秘とはきびしきなり三千羅列なり
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釈するとは妙を以ての故に即なり円を以て即と為し三を不即と為す故に更に不即に対して以て即を釈す。

御義口伝に云く此の釈の中に一珠とは衣裏珠・即頂上珠なり、客作の人と長者の子と全く不同之無し、所詮謗法不信の人は体外の権にして法用能通の二種の方便なり爰を以て無二無別に非るなり、今日蓮等の類南無妙法蓮華経と唱え奉るは是秘妙方便にして体内なり故に妙法蓮華経と題して次に方便品と云えり、妙楽の記の三の釈に本疏の即是真秘の即を以円為即と消釈せり、即は円なれば法華経の別名なり即とは凡夫即極・諸法実相の仏なり、円とは一念三千なり即と円と言は替れども妙の別名なり、一切衆生実相の仏なれば妙なり不思議なり謗法の人今之を知らざる故に之を秘と云う、又云く法界三千を秘妙とは云うなり秘とはきびしきなり三千羅列なり是より外に不思議之無し、大謗法の人たりと云うとも妙法蓮華経を受持し奉る所を妙法蓮華経方便品とは云うなり今末法に入つて正しく日蓮等の類の事なり、妙法蓮華経の体内に爾前の人法を入るを妙法蓮華経方便品とは云うなり、是を即身成仏とも如是本末究竟等とも説く、又方便とは十界の事なり又は無明なり妙法蓮華経は十界の頂上なり又は法性なり煩悩即菩提生死即涅槃是なり、以円為即とは一念三千なり妙と即とは同じ物なり一字の一念三千と云う事は円と妙とを云うなり円とは諸法実相なり、円とは釈に云く円を円融円満に名くと円融は迹門円満は本門なり又は止観の二法なり又は我等が色心の二法なり一字の一念三千とは慧心流の秘蔵なり、囗は一念なり員は三千なり一念三千とは不思議と云う事なり、此の妙は前三教に未だ之を説かず故に秘と云うなり、故に知ぬ南無妙法蓮華経は一心の方便なり妙法蓮華経は九識なり十界は八識已下なり心を留めて之を案ず可し、方とは即十方十方は即十界なり便とは不思議と云う事なり云云。

第二 諸仏智慧甚深無量其智慧門の事

文句の三に云く先ず実を歎じ次に権を歎ず、実とは諸仏の智慧なり三種の化他の権実に非ず故に諸仏と云う自行の実を顕す故に智慧と言う、此の智慧の体即ち一心の三智なり、甚深


無量とは即ち称歎の辞なり仏の実智の竪に如理の底に徹することを明す故に甚深と言う、横に法界の辺を窮む故に無量と言う無量甚深にして竪に高く横に広し、譬えば根深ければ則ち条茂く源遠ければ則ち流長きが如し実智既に然り権智例して爾り云云、其智慧門は即ち是れ権智を歎ずるなり蓋し是れ自行の道前の方便進趣の力有り故に名けて門と為す、門より入つて道中に到る道中を実と称し道前を権と謂うなり、難解難入とは権を歎ずるの辞なり不謀にして了し無方の大用あり、七種の方便測度すること能わず十住に始めて解す十地を入と為す初と後とを挙ぐ中間の難示難悟は知る可し、而るに別して声聞縁覚の所不能知を挙ぐることは執重きが故に別して之を破するのみ、記の三に云く竪高横広とは中に於て法譬合あり此れを以て後を例す、今実を釈するに既に周く横竪を窮めたり下に権を釈するに理深極なるべし、下に当に権を釈すべし予め其の相を述す故に云云と註す、其智慧門とは其とは乃ち前の実果の因智を指す若し智慧即門ならば門は是れ権なり若し智慧の門ならば智即ち果なり、蓋し是等とは此の中に須く十地を以て道前と為し妙覚を道中と為し証後を道後と為すべし、故に知んぬ文の意は因の位に在りと。

御義口伝に云く此の本末の意分明なり、中に竪に高く横に広しとは竪は本門なり横は迹門なり、根とは草木なり草木は上へ登る此れは迹門の意なり、源とは本門なり源は水なり水は下へくだる此れは本門の意なり、条茂とは迹門十四品なり流長とは本門十四品なり智慧とは一心の三智なり門とは此の智慧に入る処の能入の門なり三智の体とは南無妙法蓮華経なり門とは信心の事なり、爰を以て第二の巻に以信得入と云う入と門とは之れ同じきなり、今日蓮等の類い南無妙法蓮華経と唱え奉るを智慧とは云うなり、譬喩品に云く「唯有一門」と門に於て有門・空門・亦有亦空門・非有非空門あるなり、有門は生なり空門は死なり亦有亦空門は生死一念なり非有非空門は生に非ず死に非ず有門は題目の文字なり空門は此の五字に万法を具足して一方にとどこうらざる義な


り、亦有亦空門は五字に具足する本迹なり非有非空門は一部の意なり、此の内証は法華已前の二乗の智慧の及ばざる所なり、文句の三に云く「七種の方便測度すること能わず」と、今日蓮等の類いは此の智慧に得入するなり、仍て偈頌に除諸菩薩衆信力堅固者と云うは我等行者の事を説くなり云云。

第三 唯以一大事因縁の事

文句の四に云く一は即ち一実相なり五に非ず三に非ず七に非ず九に非ず故に一と言うなり、其の性広博にして五三七九より博し故に名けて大と為す、諸仏出世の儀式なり故に名けて事と為す、衆生に此の機有つて仏を感ず故に名けて因と為す、仏機を承けて而も応ず故に名けて縁となす、是を出世の本意と為す。

御義口伝に云く一とは法華経なり大とは華厳なり事とは中間の三味なり、法華已前にも三諦あれども砕けたる珠は宝に非ざるが如し云云、又云く一とは妙なり大とは法なり事とは蓮なり因とは華なり縁とは経なり云云、又云く我等が頭は妙なり喉は法なり胸は蓮なり胎は華なり足は経なり此の五尺の身妙法蓮華経の五字なり、此の大事を釈迦如来・四十余年の間隠密したもうなり今経の時説き出したもう此の大事を説かんが為に仏は出世したもう我等が一身の妙法五字なりと開仏知見する時・即身成仏するなり、開とは信心の異名なり信心を以て妙法を唱え奉らば軈て開仏知見するなり、然る間信心を開く時南無妙法蓮華経と示すを示仏知見と云うなり、示す時に霊山浄土の住処と悟り即身成仏と悟るを悟仏知見と云うなり、悟る当体・直至道場なるを入仏知見と云うなり、然る間信心の開仏知見を以て正意とせり、入仏知見の入の字は迹門の意は実相の理内に帰入するを入と云うなり本門の意は理即本覚と入るなり、今日蓮等の類い南無妙法蓮華経と唱え奉る程の者は宝塔に入るなり云云、又云く開仏知見の仏とは九界所具の仏界なり知見とは妙法の二字止観の二字寂照の二徳生死の二法なり色心因果なり、所詮知見とは妙法なり九界所具の仏心を法華経の知見にて開く事なり、爰を以て之を思う