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日蓮大聖人・池田大作

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如来滅後五五百歳始観心本尊抄  (1/17) 夫れ一心に十法界を具す
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如来滅後五五百歳始観心本尊抄

                本朝沙門日蓮撰

                文永十年 五十二歳御作

摩訶止観第五に云く世間と如是と一なり開合の異なり。

夫れ一心に十法界を具す一法界に又十法界を具すれば百法界なり一界に三十種の世間を具すれば百法界に即三千種の世間を具す、此の三千・一念の心に在り若し心無んば而已介爾も心有れば即ち三千を具す乃至所以に称して不可思議境と為す意此に在り」等云云或本に云く一界に三種の世間を具す。

問うて云く玄義に一念三千の名目を明かすや、答えて曰く妙楽云く明かさず、問うて曰く文句に一念三千の名目を明かすや、答えて曰く妙楽云く明かさず、問うて曰く其の妙楽の釈如何、答えて曰く並に未だ一念三千と云わず等云云、問うて曰く止観の一二三四等に一念三千の名目を明かすや、答えて曰く之れ無し、問うて曰く其の証如何、答えて曰く妙楽云く「故に止観に至つて正しく観法を明かす並びに三千を以て指南と為す」等云云、疑つて曰く玄義第二に云く「又一法界に九法界を具すれば百法界に千如是」等云云、文句第一に云く「一入に十法界を具すれば一界又十界なり十界各十如是あれば即ち是れ一千」等云云、観音玄に云く「十法界交互なれば即ち百法界有り千種の性相・冥伏して心に在り現前せずと雖も宛然として具足す」等云云、問うて曰く止観の前の四に一念三千の名目を明かすや、答えて曰く妙楽云く明さず、問うて云く其の釈如何、答う弘決第五に云く「若し正観に望めば全く未だ行を論ぜず亦二十五法に歴て事に約して解を生ず方に能く正修の方便と為すに堪えたり是の故に前の六をば皆解に属す」等云云、又云く「故に止観の正しく観法を明かすに至つて並びに三千を以て指南と


為す乃ち是れ終窮究竟の極説なり故に序の中に「説己心中所行法門」と云う良に以所有るなり請う尋ね読まん者心に異縁無れ」等云云。

夫れ智者の弘法三十年・二十九年の間は玄文等の諸義を説いて五時・八教・百界千如を明かし前き五百余年の間の諸非を責め並びに天竺の論師未だ述べざるを顕す、章安大師云く「天竺の大論尚其の類に非ず震旦の人師何ぞ労わしく語るに及ばん此れ誇耀に非ず法相の然らしむるのみ」等云云、墓ないかな天台の末学等華厳真言の元祖の盗人に一念三千の重宝を盗み取られて還つて彼等が門家と成りぬ章安大師兼ねて此の事を知つて歎いて言く「斯の言若し墜ちなば将来悲む可し」云云。

問うて曰く百界千如と一念三千と差別如何、答えて曰く百界千如は有情界に限り一念三千は情非情に亘る、不審して云く非情に十如是亘るならば草木に心有つて有情の如く成仏を為す可きや如何、答えて曰く此の事難信難解なり天台の難信難解に二有り一には教門の難信難解二には観門の難信難解なり、其の教門の難信難解とは一仏の所説に於て爾前の諸経には二乗闡提・未来に永く成仏せず教主釈尊は始めて正覚を成ず法華経迹本二門に来至し給い彼の二説を壊る一仏二言水火なり誰人か之を信ぜん此れは教門の難信難解なり、観門の難信難解は百界千如一念三千・非情の上の色心の二法十如是是なり、爾りと雖も木画の二像に於ては外典内典共に之を許して本尊と為す其の義に於ては天台一家より出でたり、草木の上に色心の因果を置かずんば木画の像を本尊に恃み奉ること無益なり、疑つて云く草木国土の上の十如是の因果の二法は何れの文に出でたるや、答えて曰く止観第五に云く「国土世間亦十種の法を具す所以に悪国土・相・性・体・力」等と云云、釈籤第六に云く「相は唯色に在り性は唯心に在り体・力・作・縁は義色心を兼ね因果は唯心・報は唯色に在り」等云云、金錍論に云く「乃ち是れ一草・一木・一礫・一塵・各一仏性・各一因果あり縁了を具足す」等云云。


問うて曰く出処既に之を聞く観心の心如何、答えて曰く観心とは我が己心を観じて十法界を見る是を観心と云うなり、譬えば他人の六根を見ると雖も未だ自面の六根を見ざれば自具の六根を知らず明鏡に向うの時始めて自具の六根を見るが如し、設い諸経の中に処処に六道並びに四聖を載すと雖も法華経並びに天台大師所述の摩訶止観等の明鏡を見ざれば自具の十界・百界千如・一念三千を知らざるなり。

問うて云く法華経は何れの文ぞ天台の釈は如何、答えて曰く法華経第一方便品に云く「衆生をして仏知見を開かしめんと欲す」等云云是は九界所具の仏界なり、寿量品に云く「是くの如く我成仏してより已来甚大に久遠なり寿命・無量阿僧祗劫・常住にして滅せず諸の善男子・我本菩薩の道を行じて成ぜし所の寿命今猶未だ尽きず復上の数に倍せり」等云云此の経文は仏界所具の九界なり、経に云く「提婆達多乃至天王如来」等云云地獄界所具の仏界なり、経に云く「一を藍婆と名け乃至汝等但能く法華の名を護持する者は福量るべからず」等云云、是れ餓鬼界所具の十界なり、経に云く「竜女乃至成等正覚」等云云此れ畜生界所具の十界なり、経に云く「婆稚阿修羅王乃至一偈一句を聞いて・阿耨多羅三藐三菩提を得べし」等云云修羅界所具の十界なり、経に云く「若し人仏の為の故に乃至皆已に仏道を成ず」等云云此れ人界所具の十界なり、経に云く「大梵天王乃至我等も亦是くの如く・必ず当に作仏することを得べし」等云云此れ天界所具の十界なり、経に云く「舎利弗乃至華光如来」等云云此れ声聞界所具の十界なり、経に云く「其の縁覚を求むる者・比丘比丘尼乃至合掌し敬心を以て具足の道を聞かんと欲す」等云云、此れ即ち縁覚界所具の十界なり、経に云く「地涌千界乃至真浄大法」等云云此れ即ち菩薩所具の十界なり、経に云く「或説己身或説他身」等云云即ち仏界所具の十界なり。

問うて曰く自他面の六根共に之を見る彼此の十界に於ては未だ之を見ず如何が之を信ぜん、答えて曰く法華経法師品に云く「難信難解」宝塔品に云く「六難九易」等云云、天台大師云く「二門悉く昔と反すれば難信難解