Nichiren・Ikeda

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日蓮大聖人・池田大作

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当体義抄  (3/9) 其の人の所住の処は常寂光土なり
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具足す是を一乗の衆生と名くるなり・此等の文の意を案ずるに三乗・五乗・七方便・九法界・四味三教・一切の凡聖等をば大乗の衆生妙法蓮華の当体とは名く可からざるなり、設い仏なりと雖も権教の仏をば仏界の名言を付く可からず権教の三身は未だ無常を免れざる故に何に況や其の余の界界の名言をや、故に正・像二千年の国王・大臣よりも末法の非人は尊貴なりと釈するも此の意なり、南岳釈して云く「一切衆生・法身の蔵を具足して仏と一にして異り有ること無し」、是の故に法華経に云く「父母所生清浄常眼耳鼻舌身意亦復如是」文、又云く「問うて云く仏・何れの経の中に眼等の諸根を説いて名けて如来と為や、答えて云く大強精進経の中に衆生と如来と同じく共に一法身にして清浄妙無比なるを妙法蓮華経と称す」文、他経に有りと雖も下文顕れ已れば通じて引用することを得るなり、大強精進経の同共の二字に習い相伝するなり法華経に同共して信ずる者は妙経の体なり不同共の念仏者等は既に仏性法身如来に背くが故に妙経の体に非ざるなり、所詮妙法蓮華の当体とは法華経を信ずる日蓮が弟子檀那等の父母所生の肉身是なり、正直に方便を捨て但法華経を信じ南無妙法蓮華経と唱うる人は煩悩業・苦の三道・法身・般若・解脱の三徳と転じて三観・三諦・即一心に顕われ其の人の所住の処は常寂光土なり、能居所居・身土・色心・倶体倶用・無作三身の本門寿量の当体蓮華の仏とは日蓮が弟子檀那等の中の事なり是れ即ち法華の当体・自在神力の顕わす所の功能なり敢て之を疑う可からず之を疑う可からず、問う天台大師・妙法蓮華の当体譬喩の二義を釈し給えり爾れば其の当体譬喩の蓮華の様は如何、答う譬喩の蓮華とは施開廃の三釈委く之を見るべし、当体蓮華の釈は玄義第七に云く「蓮華は譬えに非ず当体に名を得・類せば劫初に万物名無し聖人理を観じて準則して名を作るが如し」文、又云く「今蓮華の称は是れ喩を仮るに非ず乃ち是れ法華の法門なり法華の法門は清浄にして因果微妙なれば此の法門を名けて蓮華と為す即ち是れ法華三昧の当体の名にして譬喩に非ざるなり」又云く「問う蓮華定めて是れ法華三昧の蓮華なりや定めて是れ華草の蓮華なりや、答う定めて是れ法蓮華


なり法蓮華解し難し故に草花を喩と為す利根は名に即して理を解し譬喩を仮らず但法華の解を作す中下は未だ悟らず譬を須いて乃ち知る易解の蓮華を以て難解の蓮華に喩う、故に三周の説法有つて上中下根に逗う上根に約すれば是れ法の名・中下に約すれば是れ譬の名なり三根合論し雙べて法譬を標す是くの如く解する者は誰とか諍うことを為さんや」云云、此の釈の意は至理は名無し聖人理を観じて万物に名を付くる時・因果倶時・不思議の一法之れ有り之を名けて妙法蓮華と為す此の妙法蓮華の一法に十界三千の諸法を具足して闕減無し之を修行する者は仏因・仏果・同時に之を得るなり、聖人此の法を師と為して修行覚道し給えば妙因・妙果・倶時に感得し給うが故に妙覚果満の如来と成り給いしなり、故に伝教大師云く「一心の妙法蓮華とは因華・果台・倶時に増長す三周各各当体譬喩有り、総じて一経に皆当体譬喩あり別して七譬・三平等・十無上の法門有りて皆当体蓮華有るなり、此の理を詮ずる教を名けて妙法蓮華経と為す」云云、妙楽大師の云く「須く七譬を以て各蓮華権実の義に対すべし○何者蓮華は只是れ為実施権・開権顕実・七譬皆然なり」文、又劫初に華草有り聖人理を見て号して蓮華と名く此の華草・因果倶時なること妙法蓮華に似たり故に此の華草同じく蓮華と名くるなり水中に生ずる赤蓮華・白蓮華等の蓮華是なり、譬喩の蓮華とは此の華草の蓮華なり此の華草を以て難解の妙法蓮華を顕す天台大師の妙法は解し難し譬を仮りて顕れ易しと釈するは是の意なり。

問う劫初より已来何人か当体の蓮華を証得せしや、答う釈尊五百塵点劫の当初此の妙法の当体蓮華を証得して世世番番に成道を唱え能証所証の本理を顕し給えり、今日又・中天竺摩訶陀国に出世して此の蓮華を顕わさんと欲すに機無く時無し故に一法の蓮華に於て三の草華を分別し三乗の権法を施し擬宜誘引せしこと四十余年なり、此の間は衆生の根性万差なれば種種の草華を施し設けて終に妙法蓮華を施したまわざる故に、無量義経に云く「我先に道場菩提樹下乃至四十余年未だ真実を顕さず」文、法華経に至つて四味三教の方便の権教・小乗・種種


の草華を捨てて唯一の妙法蓮華を説き三の華草を開して一の妙法蓮華を顕す時、四味・三教の権人に初住の蓮華を授けしより始めて開近顕遠の蓮華に至つて二住・三住乃至十住・等覚・妙覚の極果の蓮華を得るなり。

問う法華経は何れの品何れの文にか正しく当体譬喩の蓮華を説き分けたるや、答う若し三周の声聞に約して之を論ぜば方便の一品は皆是当体蓮華を説けるなり、譬喩品・化城喩品には譬喩蓮華を説きしなり、但方便品にも譬喩蓮華無きに非ず余品にも当体蓮華無きに非ざるなり、問う若し爾らば正く当体蓮華を説きし文は何れぞや答う方便品の諸法実相の文是なり、問う何を以て此の文が当体蓮華なりと云う事を知ることを得るや、答う天台妙楽今の文を引て今経の体を釈せし故なり、又伝教大師釈して云く「問う法華経は何を以て体と為すや、答う諸法実相を以て体と為す」文、此の釈分明なり当世の学者此の釈を秘して名を顕さず然るに此の文の名を妙法蓮華と曰う義なり、又現証は宝塔品の三身是れ現証なり、或は涌出の菩薩・竜女の即身成仏是なり、地涌の菩薩を現証と為す事は経文に如蓮華在水と云う故なり、菩薩の当体と聞たり竜女を証拠と為す事は霊鷲山に詣で千葉の蓮華の大いさ車輪の如くなるに坐しと説きたまう故なり、又妙音・観音の三十三・四身なり是をば解釈には法華三昧の不思議・自在の業を証得するに非ざるよりは安ぞ能く此の三十三身を現ぜんと云云、或は「世間相常住」文、此等は皆当世の学者の勘文なり、然りと雖も日蓮は方便品の文と神力品の如来一切所有之法等の文となり、此の文をば天台大師も之を引いて今経の五重玄を釈せしなり、殊更此の一文正しき証文なり。

問う次上に引く所の文証・現証・殊勝なり何ぞ神力の一文に執するや、答う此の一文は深意有る故に殊更に吉なり、問う其の深意如何、答う此の文は釈尊・本眷属地涌の菩薩に結要の五字の当体を付属すと説きたまえる文なる故なり、久遠実成の釈迦如来は我が昔の所願の如き今は已に満足す、一切衆生を化して皆仏道に入ら令むとて御願已に満足し、如来の滅後・後五百歳中・広宣流布の付属を説かんが為地涌の菩薩を召し出し本門の当体蓮華を