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日蓮大聖人・池田大作

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善無畏三蔵抄  (3/10) 日蓮は安房の国・東条片海の石中の賤民が子な…
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厳経にも劣りなん何に況や真言経に及ぶべしや、或は云く印・真言のなき事は法華経に諍ふべからず、或は云く天台宗の祖師多く真言宗を勝ると云い世間の思いも真言宗勝れたるなんめりと思へり、日蓮此の事を計るに人多く迷ふ事なれば委細にかんがへたるなり、粗余処に注せり見るべし又志あらん人人は存生の時習い伝ふべし人の多く・おもふには・おそるべからず、又時節の久近にも依るべからず専ら経文と道理とに依るべし、浄土宗は曇鸞・道綽・善導より誤り多くして多くの人人を邪見に入れけるを日本の法然・是をうけ取つて人ごとに念仏を信ぜしむるのみならず天下の諸宗を皆失はんとするを叡山・三千の大衆・南都・興福寺・東大寺の八宗より是をせく故に代代の国王・勅宣を下し将軍家より御教書をなして・せけどもとどまらず、弥弥繁昌して返つて主上・上皇・万民・等にいたるまで皆信状せり。

而るに日蓮は安房の国・東条片海の石中の賤民が子なり威徳なく有徳のものにあらず、なににつけてか南都・北嶺のとどめがたき天子の虎牙の制止に叶はざる念仏をふせぐべきとは思へども経文を亀鏡と定め天台・伝教の指南を手ににぎりて建長五年より今年・文永七年に至るまで十七年が間・是を責めたるに日本国の念仏・大体留り了ぬ眼前に是れ見えたり、又口にすてぬ人人はあれども心計りは念仏は生死をはなるる道にはあらざりけると思ふ、禅宗以て是くの如し一を以て万を知れ真言等の諸宗の誤りをだに留めん事手ににぎりておぼゆるなり、況や当世の高僧・真言師等は其の智牛馬にもおとり螢火の光にもしかず只死せるものの手に弓箭をゆひつけ・ねごとするものに物をとふが如し、手に印を結び口に真言は誦すれども其の心中には義理を弁うる事なし、結句・慢心は山の如く高く欲心は海よりも深し、是は皆自ら経論の勝劣に迷ふより事起り祖師の誤りをたださざるによるなり、所詮・智者は八万法蔵をも習ふべし十二部経をも学すべし、末代濁悪世の愚人は念仏等の難行・易行等をば抛つて一向に法華経の題目を南無妙法蓮華経と唱え給うべし、日輪・東方の空に出でさせ給へば南浮の空・皆明かなり大


光を備へ給へる故なり、螢火は未だ国土を照さず宝珠は懐中に持ぬれば万物皆ふらさずと云う事なし、瓦石は財をふらさず念仏等は法華経の題目に対すれば瓦石と宝珠と螢火と日光との如し。

我等が昧き眼を以て螢火の光を得て物の色を弁ふべしや、旁凡夫の叶いがたき法は念仏・真言等の小乗権経なり、又我が師・釈迦如来は一代聖教乃至八万法蔵の説者なり、此の娑婆・無仏の世の最先に出でさせ給いて一切衆生の眼目を開き給ふ御仏なり、東西十方の諸仏・菩薩も皆此の仏の教なるべし、譬えば皇帝已前は人・父をしらずして畜生の如し、堯王已前は四季を弁へず牛馬の癡なるに同じかりき、仏世に出でさせ給はざりしには比丘・比丘尼の二衆もなく只男女二人にて候いき、今比丘・比丘尼の真言師等・大日如来を御本尊と定めて釈迦如来を下し念仏者等が阿弥陀仏を一向に持つて釈迦如来を抛てたるも教主釈尊の比丘・比丘尼なり元祖が誤を伝え来るなるべし。

此の釈迦如来は三の故ましまして他仏にかはらせ給ひて娑婆世界の一切衆生の有縁の仏となり給ふ、一には此の娑婆世界の一切衆生の世尊にておはします、阿弥陀仏は此の国の大王にはあらず釈迦仏は譬えば我が国の主上のごとし先ず此の国の大王を敬つて後に他国の王をば敬ふべし、天照太神・正八幡宮等は我が国の本主なり迹化の後・神と顕れさせ給ふ、此の神にそむく人・此の国の主となるべからず、されば天照太神をば鏡にうつし奉りて内侍所と号す、八幡大菩薩に勅使有つて物申しあはさせ給いき、大覚世尊は我等が尊主なり先づ御本尊と定むべし、二には釈迦如来は娑婆世界の一切衆生の父母なり、先づ我が父母を孝し後に他人の父母には及ぼすべし、例せば周の武王は父の形を木像に造つて車にのせて戦の大将と定めて天感を蒙り殷の紂王をうつ、舜王は父の眼の盲たるをなげきて涙をながし手をもつて・のごひしかば本のごとく眼あきにけり、此の仏も又是くの如く我等衆生の眼をば開仏知見とは開き給いしか、いまだ他仏は開き給はず、三には此の仏は娑婆世界の一切衆生の本師な


り、此の仏は賢劫第九・人寿百歳の時・中天竺・浄飯大王の御子・十九にして出家し三十にして成道し五十余年が間一代聖教を説き八十にして御入滅・舎利を留めて一切衆生を正像末に救ひ給ふ、阿弥陀如来・薬師仏・大日等は他土の仏にして此の世界の世尊にてはましまさず、此の娑婆世界は十方世界の中の最下の処・譬えば此の国土の中の獄門の如し、十方世界の中の十悪・五逆・誹謗正法の重罪・逆罪の者を諸仏如来・擯出し給いしを釈迦如来・此の土にあつめ給ふ、三悪並びに無間大城に堕ちて其の苦をつぐのひて人中天上には生れたれども其の罪の余残ありてややもすれば正法を謗じ智者を罵り罪つくりやすし、例せば身子は阿羅漢なれども瞋恚のけしきあり、畢陵は見思を断ぜしかども慢心の形みゆ、難陀は婬欲を断じても女人に交る心あり、煩悩を断じたれども余残あり何に況や凡夫にをいてをや、されば釈迦如来の御名をば能忍と名けて此の土に入り給うに一切衆生の誹謗をとがめずよく忍び給ふ故なり、此等の秘術は他仏のかけ給へるところなり、阿弥陀仏等の諸仏世尊・悲願をおこさせ給いて心にははぢをおぼしめして還つて此の界にかよひ四十八願・十二大願なんどは起させ給ふなるべし、観世音等の他土の菩薩も亦復是くの如し、仏には常平等の時は一切諸仏は差別なけれども常差別の時は各各に十方世界に土をしめて有縁無縁を分ち給ふ、大通智勝仏の十六王子・十方に土をしめて一一に我が弟子を救ひ給ふ、其の中に釈迦如来は此土に当り給ふ我等衆生も又生を娑婆世界に受けぬ、いかにも釈迦如来の教化をばはなるべからず而りといへども人皆是を知らず委く尋ねあきらめば唯我一人能為救護と申して釈迦如来の御手を離るべからず、而れば此の土の一切衆生・生死を厭ひ御本尊を崇めんとおぼしめさば必ず先ず釈尊を木画の像に顕わして御本尊と定めさせ給いて其の後力おはしまさば弥陀等の他仏にも及ぶべし。

然るを当世聖行なき此の土の人人の仏をつくりかかせ給うに先ず他仏をさきとするは其の仏の御本意にも釈迦如来の御本意にも叶ふべからざる上世間の礼儀にもはづれて候、されば優塡大王の赤栴檀いまだ他仏をば・きざ