Nichiren・Ikeda

Search & Study

日蓮大聖人・池田大作

検索 & 研究 ver.9

秋元殿御返事 
1070

秋元殿御返事

                    文永八年正月 五十歳御作

                    於安房保田

御文委く承り候い畢んぬ、御文に云く末法の始・五百年には・いかなる法を弘むべしと思ひまいらせ候しに聖人の仰を承り候に法華経の題目に限つて弘むべき由・聴聞申して御弟子の一分に定まり候、殊に五節供はいかなる由来・何なる所表・何を以て正意として・まつり候べく候や云云、夫れ此の事は日蓮委く知る事なし、然りと雖も粗意得て候、根本大師の御相承ありげに候、総じて真言天台両宗の習なり、委くは曾谷殿へ申候次での御時は御談合あるべきか、先ず五節供の次第を案ずるに妙法蓮華経の五字の次第の祭なり、正月は妙の一字のまつり天照太神を歳の神とす、三月三日は法の一字のまつりなり辰を以て神とす、五月五日は蓮の一字のまつりなり午を以て神とす、七月七日は華の一字の祭なり申を以て神とす、九月九日は経の一字のまつり戌を以て神とす、此くの如く心得て南無妙法蓮華経と唱へさせ給へ現世安穏後生善処疑なかるべし、法華経の行者をば一切の諸天・不退に守護すべき経文分明なり、経の第五に云く「諸天昼夜に常に法の為の故に而も之を衛護す」云云、又云く「天の諸の童子以て給使を為し刀杖も加えず毒も害する能わず」云云、諸天とは梵天・帝釈・日月・四大天王等なり、法とは法華経なり、童子とは七曜・二十八宿・摩利支天等なり、「臨兵闘者皆陳列在前」是又「刀杖不加」の四字なり、此等は随分の相伝なり能く能く案じ給うべし、第六に云く「一切世間の治生産業は皆実相と相違背せず」云云、五節供の時も唯南無妙法蓮華経と唱へて悉地成就せしめ給へ、委細は又又申す可く候。

次に法華経は末法の始め五百年に弘まり給ふべきと聴聞仕り御弟子となると仰せ候事、師檀となる事は三世の契り種熟脱の三益別に人を求めんや、「在在諸の仏土常に師と倶に生れん若し法師に親近せば速かに菩提の道を


得ん、是の師に随順して学ばば恒沙の仏を見奉る事を得ん」との金言違ふべきや、提婆品に云ふ「所生の処常に此の経を聞く」の人はあに貴辺にあらずや、其の故は次上に「未来世中・若有善男子・善女人」と見えたり、善男子とは法華経を持つ俗の事なり弥信心をいたし給うべし、信心をいたし給うべし、恐恐謹言。

  正月十一日                     日蓮花押

   秋元殿御返事              安房の国ほたより出す

秋元御書

                    弘安三年一月 五十九歳御作

                    於身延

筒御器一具付三十並に盞付六十送り給び候い畢んぬ、御器と申すは・うつはものと読み候、大地くぼければ水たまる青天浄ければ月澄めり、月出でぬれば水浄し雨降れば草木昌へたり、器は大地のくぼきが如し水たまるは池に水の入るが如し、月の影を浮ぶるは法華経の我等が身に入らせ給うが如し、器に四の失あり・一には覆と申してうつぶけるなり・又はくつがへす又は蓋をおほふなり、二には漏と申して水もるなり、三には汙と申して・けがれたるなり水浄けれども糞の入りたる器の水をば用ゆる事なし、四には雑なり・飯に或は糞或は石或は沙或は土なんどを雑へぬれば人食ふ事なし、器は我等が身心を表す、我等が心は器の如し口も器・耳も器なり、法華経と申すは仏の智慧の法水を我等が心に入れぬれば・或は打ち返し・或は耳に聞かじと左右の手を二つの耳に覆ひ・或は口に唱へじと吐き出しぬ、譬えば器を覆するが如し、或は少し信ずる様なれども又悪縁に値うて信心うすくなり或は打ち捨て或は信ずる日はあれども捨つる月もあり是は水の漏が如し、或は法華経を行ずる人の一口は


南無妙法蓮華経・一口は南無阿弥陀仏なんど申すは飯に糞を雑へ沙石を入れたるが如し、法華経の文に「但大乗経典を受持することを楽うて乃至余経の一偈をも受けざれ」等と説くは是なり、世間の学匠は法華経に余行を雑えても苦しからずと思へり、日蓮も・さこそ思い候へども経文は爾らず、譬えば后の大王の種子を妊めるが又民と・とつげば王種と民種と雑りて天の加護と氏神の守護とに捨てられ其の国破るる縁となる、父二人出来れば王にもあらず民にもあらず人非人なり、法華経の大事と申すは是なり、種熟脱の法門・法華経の肝心なり、三世十方の仏は必ず妙法蓮華経の五字を種として仏になり給へり、南無阿弥陀仏は仏種にはあらず真言五戒等も種ならず、能く能く此の事を習い給べし是は雑なり、此の覆・漏・汙・雑の四の失を離れて候器をば完器と申して・またき器なり、塹つつみ漏らざれば水失る事なし、信心のこころ全ければ平等大慧の智水乾く事なし、今此の筒の御器は固く厚く候上・漆浄く候へば法華経の御信力の堅固なる事を顕し給うか、毘沙門天は仏に四つの鉢を進らせて四天下・第一の福天と云はれ給ふ、浄徳夫人は雲雷音王仏に八万四千の鉢を供養し進らせて妙音菩薩と成り給ふ、今法華経に筒御器三十・盞六十・進らせて争か仏に成らせ給はざるべき。

抑日本国と申すは十の名あり・扶桑・野馬台・水穂・秋津洲等なり、別しては六十六箇国・島二つ・長さ三千余里広さは不定なり、或は百里・或は五百里等、五畿・七道・郡は五百八十六・郷は三千七百二十九・田の代は上田一万一千一百二十町・乃至八十八万五千五百六十七町・人数は四十九億八万九千六百五十八人なり、神社は三千一百三十二社・寺は一万一千三十七所・男は十九億九万四千八百二十八人・女は二十九億九万四千八百三十人なり、其の男の中に只日蓮・第一の者なり、何事の第一とならば男女に悪まれたる第一の者なり、其の故は日本国に国多く人多しと云へども其の心一同に南無阿弥陀仏を口ずさみとす、阿弥陀仏を本尊とし九方を嫌いて西方を願う、設い法華経を行ずる人も真言を行ふ人も、戒を持つ者も智者も愚人も余行を傍として念仏を正とし罪を消さん謀