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日蓮大聖人・池田大作

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光日上人御返事  (2/2) 霊山浄土へ参り合せ給わん事疑いなかるべし
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べし故に仏委しくは説き給う事なしと見えて候。

今日本国の四十五億八万九千六百五十八人の人人は皆此の地獄へ堕ちさせ給うべし、されども一人として堕つべしとはおぼさず、例せば此の弘安四年五月以前には日本の上下万人一人も蒙古の責めにあふべしともおぼさざりしを日本国に只日蓮一人計りかかる事・此の国に出来すべしとしる、其の時日本国の四十五億八万九千六百五十八人の一切衆生・一人もなく他国に責められさせ給いて、其の大苦は譬へばほうろくと申す釜に水を入れてざつこと申す小魚をあまた入れて枯れたるしば木をたかむが如くなるべしと申せば、あらおそろし・いまいまし・打ちはれ所を追へ流せ殺せ信ぜん人人をば田はたを・とれ財を奪へ所領をめせと申せしかども、此の五月よりは大蒙古の責めに値いてあきれ迷ふ程にさもやと思う人人もあるやらん、にがにがしうして・せめたくはなけれども有る事なればあたりたり・あたりたり、日蓮が申せし事はあたりたり・ばけ物のもの申す様にこそ候めれ。

去る承久の合戦に隠岐の法皇の御前にして京の二位殿なんどと申せし何もしらぬ女房等の集りて王を勧め奉り戦を起して義時に責められ・あはて給いしが如し、今今御覧ぜよ法華経誹謗の科と云ひ日蓮をいやしみし罰と申し経と仏と僧との三宝誹謗の大科によつて現生には此の国に修羅道を移し後生には無間地獄へ行き給うべし、此れ又偏に弘法・慈覚・智証等の三大師の法華経誹謗の科と達磨・善導・律僧等の一乗誹謗の科と此れ等の人人を結構せさせ給う国主の科と、国を思ひ生処を忍びて兼て勘へ告げ示すを用いずして還つて怨をなす大科、先例を思へば呉王・夫差の伍子胥が諫を用いずして越王・勾践にほろぼされ、殷の紂王が比干が言をあなづりて周の武王に責められしが如し。

而るに光日尼御前はいかなる宿習にて法華経をば御信用ありけるぞ、又故弥四郎殿が信じて候しかば子の勧めか此の功徳空しからざれば子と倶に霊山浄土へ参り合せ給わん事疑いなかるべし、烏竜と云いし者は法華経を謗


じて地獄に堕ちたりしかども其の子に遺竜と云いし者・法華経を書きて供養せしかば親・仏に成りぬ、又妙荘厳王は悪王なりしかども御子の浄蔵・浄眼に導かれて娑羅樹王仏と成らせ給う、其の故は子の肉は母の肉・母の骨は子の骨なり、松栄れば柏悦ぶ芝かるれば蘭なく情無き草木すら友の喜び友の歎き一つなり、何に況や親と子との契り胎内に宿して九月を経て生み落し数年まで養ひき、彼にになはれ彼にとぶらはれんと思いしに彼をとぶらふうらめしさ、彼如何があらんと思うこころぐるしさ・いかにせん・いかにせん、子を思う金鳥は火の中に入りにき、子を思いし貧女は恒河に沈みき、彼の金鳥は今の弥勒菩薩なり彼の河に沈みし女人は大梵天王と生まれ給えり、何に況や今の光日上人は子を思うあまりに法華経の行者と成り給ふ、母と子と倶に霊山浄土へ参り給うべし、其の時御対面いかにうれしかるべき・いかにうれしかるべき、恐恐。

  八月八日                      日蓮花押

   光日上人御返事

光日尼御返事

なきなをながさせ給うにや、三つのつなは今生に切れぬ五つのさわりはすでにはれぬらむ、心の月くもりなく身のあかきへはてぬ、即身の仏なり・たうとし・たうとし、くはしく申すべく候へども・あまりふみををくかき候ときに・かきたりて候ぞ恐恐謹言。

  九月十九日                     日蓮在御判

   光日尼ごぜん御返事


四恩抄

                    弘長二年正月十六日 四十一歳御作

                    与 工藤左近尉吉隆  於伊豆伊東

抑此の流罪の身になりて候につけて二つの大事あり、一には大なる悦びあり其の故は此の世界をば娑婆と名く娑婆と申すは忍と申す事なり・故に仏をば能忍と名けたてまつる、此の娑婆世界の内に百億の須弥山・百億の日月・百億の四州あり、其の中の中央の須弥山・日月・四州に仏は世に出でまします、此の日本国は其の仏の世に出でまします国よりは丑寅の角にあたりたる小島なり、此の娑婆世界より外の十方の国土は皆浄土にて候へば人の心もやはらかに賢聖をのり悪む事も候はず、此の国土は十方の浄土にすてはてられて候・十悪・五逆・誹謗賢聖・不孝父母・不敬沙門等の科の衆生が三悪道に堕ちて無量劫を経て還つて此の世界に生れて候が、先生の悪業の習気失せずしてややもすれば十悪・五逆を作り賢聖をのり・父母に孝せず沙門をも敬はず候なり、故に釈迦如来・世に出でましませしかば或は毒薬を食に雑て奉り或は刀杖・悪象・師子・悪牛・悪狗等の方便を以て害し奉らんとし・或は女人を犯すと云い・或は卑賤の者・或は殺生の者と云い、或は行き合い奉る時は面を覆うて眼に見奉らじとし、或は戸を閉じ窓を塞ぎ、或は国王大臣の諸人に向つては邪見の者なり高き人を罵者なんど申せしなり、大集経・涅槃経等に見えたり、させる失も仏には・おはしまさざりしかども只此の国のくせ・かたわとして悪業の衆生が生れ集りて候上、第六天の魔王が此の国の衆生を他の浄土へ出さじと・たばかりを成して・かく事にふれて・ひがめる事をなすなり、此のたばかりも詮する所は仏に法華経を説かせまいらせじ料と見えて候、其の故は魔王の習として三悪道の業を作る者をば悦び三善道の業を作る者をば・なげく、又三善道の業を作る者をば・いたうなげかず三乗とならんとする者をば・いたうなげく、又三乗となる者をば・いたうなげかず仏となる業をなす者をば強になげき事