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日蓮大聖人・池田大作

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呵責謗法滅罪抄  (7/7) 父を殺せども仏涅槃の時・法華経を聞いて阿鼻…
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釈の如くならば日本国の一切衆生の慈悲の父母なり、天高けれども耳とければ聞かせ給うらん地厚けれども眼早ければ御覧あるらん天地既に知し食しぬ、又一切衆生の父母を罵詈するなり父母を流罪するなり、此の国此の両三年が間の乱政は先代にもきかず法に過ぎてこそ候へ。

抑悲母の孝養の事・仰せ遣され候感涙押へ難し、昔元重等の五童は五郡の異性の他人なり兄弟の契りをなして互に相背かざりしかば財三千を重ねたり、我等親と云う者なしと歎きて途中に老女を儲けて母と崇めて一分も心に違はずして二十四年なり、母忽に病に沈んで物いはず、五子天に仰いで云く我等孝養の感無くして母もの云わざる病あり、願くは天・孝の心を受け給はば此の母に物いはせ給へと申す、其の時に母・五子に語つて云く我は本是れ大原の陽猛と云うものの女なり、同郡の張文堅に嫁す文堅死にき、我に一の児あり名をば烏遺と云いき彼が七歳の時・乱に値うて行く処をしらず、汝等五子に養はれて二十四年・此の事を語らず、我が子は胸に七星の文あり右の足の下に黒子ありと語り畢つて死す、五子葬をなす途中にして国令の行くにあひぬ、彼の人物記する嚢を落せり此の五童が取れるになして禁め置かれたり、令来つて問うて云く汝等は何くの者ぞ、五童答えて云く上に言えるが如し、爾の時に令上よりまろび下て天に仰ぎ地に泣く、五人の繩をゆるして我が座に引き上せて物語りして云く我は是れ烏遺なり、汝等は我が親を養いけるなり此の二十四年の間・多くの楽みに値へども非母の事をのみ思い出でて楽みも楽しみならず、乃至大王の見参に入れて五県の主と成せりき、他人集つて他の親を養ふに是くの如し、何に況や同父同母の舎弟妹女等が・いういうたるを顧みば天も争か御納受なからんや。

浄蔵・浄眼は法華経をもつて邪見の慈父を導びき、提婆達多は仏の御敵・四十余年の経経にて捨てられ臨終悪くして大地破れて無間地獄に行きしかども法華経にて召し還して天王如来と記せらる、阿闍世王は父を殺せども仏涅槃の時・法華経を聞いて阿鼻の大苦を免れき


例せば此の佐渡の国は畜生の如くなり又法然が弟子充満せり、鎌倉に日蓮を悪みしより百千万億倍にて候、一日も寿あるべしとも見えねども各御志ある故に今まで寿を支へたり、是を以て計るに法華経をば釈迦・多宝・十方の諸仏・大菩薩・供養恭敬せさせ給へば此の仏・菩薩は各各の慈父慈母に日日・夜夜・十二時にこそ告げさせ給はめ、当時主の御おぼえの・いみじく・おはするも慈父・悲母の加護にや有るらん、兄弟も兄弟とおぼすべからず只子とおぼせ、子なりとも梟鳥と申す鳥は母を食ふ破鏡と申す獣の父を食わんと・うかがふ、わが子・四郎は父母を養ふ子なれども悪くばなにかせん、他人なれどもかたらひぬれば命にも替るぞかし、舎弟等を子とせられたらば今生の方人・人目申す計りなし、妹等を女と念はば・などか孝養せられざるべき、是へ流されしには一人も訪う人もあらじとこそ・おぼせしかども同行七八人よりは少からず、上下のくわても各の御計ひなくばいかがせん、是れ偏に法華経の文字の各の御身に入り替らせ給いて御助けあるとこそ覚ゆれ。

何なる世の乱れにも各各をば法華経・十羅刹・助け給へと湿れる木より火を出し乾ける土より水を儲けんが如く強盛に申すなり、事繁ければ・とどめ候。

   四条金吾殿御返事                 日蓮花押

主君耳入此法門免与同罪事

                    文永十一年九月 五十三歳御作

                    与 四条金吾

  銭二貫文給び畢んぬ。

有情の第一の財は命にすぎず此れを奪う者は必ず三途に堕つ、然れば輪王は十善の始には不殺生・仏の小乗経の始には五戒・其の始には不殺生、大乗・梵網経の十重禁の始には不殺生、法華経の寿量品は釈迦如来の不殺生戒


の功徳に当つて候品ぞかし、されば殺生をなす者は三世の諸仏にすてられ六欲天も是を守る事なし、此の由は世間の学者も知れり日蓮もあらあら意得て候、但し殺生に子細あり彼の殺さるる者の失に軽重あり、我が父母主君・我が師匠を殺せる者を・かへりて害せば同じつみなれども重罪かへりて軽罪となるべし、此れ世間の学者知れる処なり、但し法華経の御かたきをば大慈大悲の菩薩も供養すれば必ず無間地獄に堕つ、五逆の罪人も彼を怨とすれば必ず人天に生を受く、仙予国王・有徳国王は五百・無量の法華経のかたきを打ちて今は釈迦仏となり給う、其の御弟子迦葉・阿難・舎利弗・目連等の無量の眷属は彼の時に先を懸け陣をやぶり或は殺し或は害し或は随喜せし人人なり、覚徳比丘は迦葉仏なり、彼の時に此の王王を勧めて法華経のかたきをば父母・宿世・叛逆の者の如くせし大慈・大悲の法華経の行者なり。

今の世は彼の世に当れり、国主日蓮が申す事を用ゆるならば彼がごとく・なるべきに用いざる上かへりて彼がかたうどとなり一国こぞりて日蓮・をかへりてせむ、上一人より下万民にいたるまで皆五逆に過ぎたる謗法の人となりぬ、されば各各も彼が方ぞかし、心は日蓮に同意なれども身は別なれば与同罪のがれがたきの御事に候に主君に此の法門を耳にふれさせ進せけるこそ・ありがたく候へ、今は御用いなくもあれ殿の御失は脱れ給ひぬ、此れより後には口をつつみて・おはすべし、又天も一定殿をば守らせ給うらん、此れよりも申すなり。

かまへて・かまへて御用心候べし、いよいよ・にくむ人人ねらひ候らん、御さかもり夜は一向に止め給へ、只女房と酒うち飲んで・なにの御不足あるべき、他人のひるの御さかもりおこたるべからず、酒を離れて・ねらうひま有るべからず、返す返す、恐恐謹言。

  九月二十六日                   日蓮花押

   左衛門尉殿御返事