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日蓮大聖人・池田大作

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御義口伝巻下  (10/52) 喜とは自他共に喜ぶ事なり
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の事理の顕本を一念に信解するなり、一念とは無作本有の一念なり、此くの如く信解する人の功徳は限量有る事有る可からざるなり、信の処に解あり解の処に信あり然りと雖も信を以て成仏を決定するなり、今日蓮等の類い南無妙法蓮華経と唱え奉る者是なり云云。

第二 是則能信受如是諸人等頂受此経典の事

御義口伝に云く法華経を頭に頂くと云う明文なり、如是諸人等の文は広く一切衆生に亘るなり、然らば三世十方の諸仏は妙法蓮華経を頂き受けて成仏し給う、仍つて上の寿量品の題目を妙法蓮華経と題して次に如来と題したり秘す可し云云、今日蓮等の類い南無妙法蓮華経と唱え奉るは此の故なり云云。

第三 仏子住此地則是仏受用の事

御義口伝に云く此の文を自受用の明文と云えり、此地とは無作の三身の依地なり仏子とは法華の行者なり仏子は菩薩なり法華の行者は菩薩なり住とは信解の義なり、今日蓮等の類い南無妙法蓮華経と唱え奉る者は妙法の地に住するなり仏の受用の身なり深く之を案ず可し云云。

       随喜品二箇の大事

第一 妙法蓮華経随喜功徳の事

御義口伝に云く随とは事理に随順するを云うなり喜とは自他共に喜ぶ事なり、事とは五百塵点の事顕本に随順するなり理とは理顕本に随うなり所詮寿量品の内証に随順するを随とは云うなり、然るに自他共に智慧と慈悲と有るを喜とは云うなり所詮今日蓮等の類い南無妙法蓮華経と唱え奉る時必ず無作三身の仏に成るを喜とは云うなり、然る間随とは法に約し喜とは人に約するなり、人とは五百塵点の古仏たる釈尊法とは寿量品の南無妙


法蓮華経なり、是に随い喜ぶを随喜とは云うなり惣じて随とは信の異名なり云云、唯信心の事を随と云うなりされば二巻には随順此経非己智分と説かれたり云云。

第二 口気無臰穢優鉢華之香常從其口出の事

御義口伝に云く口気とは題目なり、無臰穢とは弥陀等の権教方便無得道の教を交えざるなり、優鉢華之香とは法華経なり、末法の今は題目なり、方便品に如優曇鉢華の事を一念三千と云えり之を案ず可し、常とは三世常住なり其口とは法華の行者の口なり出とは南無妙法蓮華経なり、今日蓮等の類い南無妙法蓮華経と唱え奉るは常従其口出なり云云。

       法師功徳品四箇の大事

第一 法師功徳の事

御義口伝に云く法師とは五種法師なり功徳とは六根清浄の果報なり、所詮今日蓮等の類い南無妙法蓮華経と唱え奉る者は六根清浄なり、されば妙法蓮華経の法の師と成つて大なる徳有るなり、功は幸と云う事なり又は悪を滅するを功と云い善を生ずるを徳と云うなり、功徳とは即身成仏なり又六根清浄なり、法華経の説文の如く修行するを六根清浄と得意可きなり云云。

第二 六根清浄の事

御義口伝に云く眼の功徳とは法華不信の者は無間に堕在し信ずる者は成仏なりと見るを以て眼の功徳とするなり、法華経を持ち奉る処に眼の八百の功徳を得るなり、眼とは法華経なり此の大乗経典は諸仏の眼目と、今日蓮等の類い南無妙法蓮華経と唱え奉る者は眼の功徳を得るなり云云、耳・鼻・舌・身・意又又此くの如きなり云云。


第三 又如浄明鏡の事

御義口伝に云く法華経に鏡の譬を説く事此の明文なり、六根清浄の人は瑠璃明鏡の如く三千世界を見ると云う経文なり、今日蓮等の類い南無妙法蓮華経と唱え奉る者は明鏡に万像を浮ぶるが如く知見するなり、此の明鏡とは法華経なり別しては宝塔品なり、又は我が一心の明鏡なり、所詮瑠璃と明鏡との二の譬を説かれたり身根清浄の下なり、色心不二なれば何れも清浄の徳分なり浄とは不浄に対して浄と云うなり明とは無明に対して明と説くなり、鏡とは一心なり浄は仮諦・明は空諦・鏡は中道なり悉見諸色像の悉は十界なり、所詮浄明鏡とは色心の二法、妙法蓮華経の体なり浄明鏡とは信心なり云云、又三千大千世界を知見するとは三世間の事なり。

第四 是人持此経安住希有地の事

御義口伝に云く是人とは日本国の一切衆生の中には法華の行者なり希有地とは寿量品の事理の顕本を指すなり、是を又分別品には「仏説希有法」と説かれたり別しては南無妙法蓮華経なり、今日蓮等の類い南無妙法蓮華経と唱え奉る者の希有の地とは末法弘通の明鏡たる本尊なり、惣じては此の品の六根清浄の功徳は十信相似即なり対告衆の常精進菩薩は十信の第三信と云えり、然りと雖も末法に於ては法華経の行者を指して常精進菩薩と心得可きなり此の経の持者は是則精進の故なり。

       常不軽品三十箇の大事

第一 常不軽の事