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日蓮大聖人・池田大作

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四条金吾殿御返事  (1/2) ふかく信心をとり給へ、あへて臆病にては叶う…
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りも法華経の兵法をもちひ給うべし、「諸余怨敵・皆悉摧滅」の金言むなしかるべからず、兵法剣形の大事も此の妙法より出でたり、ふかく信心をとり給へ、あへて臆病にては叶うべからず候、恐恐謹言。

  十月二十三日                    日蓮花押

   四条金吾殿御返事

四条金吾殿御返事

                    弘安三年十月 五十九歳御作

殿岡より米送り給び候、今年七月・盂蘭盆供の僧膳にして候、自恣の僧・霊山の聴衆・仏陀・神明も納受随喜し給うらん、尽きせぬ志・連連の御訪い言を以て尽くしがたし。

何となくとも殿の事は後生菩提疑なし、何事よりも文永八年の御勘気の時・既に相模の国・竜の口にて頸切られんとせし時にも殿は馬の口に付いて足歩赤足にて泣き悲み給いし事実にならば腹きらんとの気色なりしをば・いつの世にか思い忘るべき、それのみならず佐渡の島に放たれ北海の雪の下に埋もれ北山の嶺の山下風に命助かるべしともをぼへず、年来の同朋にも捨てられ故郷へ帰らん事は大海の底のちびきの石の思ひしてさすがに凡夫なれば古郷の人人も恋しきに在俗の官仕隙なき身に此の経を信ずる事こそ稀有なるに山河を凌ぎ蒼海を経て遙に尋ね来り給いし志・香城に骨を砕き雪嶺に身を投げし人人にも争でか劣り給うべき、又我が身はこれ程に浮び難かりしが・いかなりける事にてや同十一年の春の比・赦免せられて鎌倉に帰り上りけむ、倩事の情を案ずるに今は我身に過あらじ、或は命に及ばんとし弘長には伊豆の国・文永には佐渡の島・諫暁再三に及べば留難重畳せり、仏法中怨の誡責をも身には・はや免れぬらん。


然るに今山林に世を遁れ道を進まんと思いしに人人の語・様様なりしかども旁存ずる旨ありしに依りて当国・当山に入りて已に七年の春秋を送る、又身の智分をば且らく置きぬ法華経の方人として難を忍び疵を蒙る事は漢土の天台大師にも越え日域の伝教大師にも勝れたり、是は時の然らしむる故なり、我が身法華経の行者ならば霊山の教主・釈迦・宝浄世界の多宝如来・十方分身の諸仏・本化の大士・迹化の大菩薩・梵・釈・竜神・十羅刹女も定めて此の砌におはしますらん、水あれば魚すむ林あれば鳥来る蓬莱山には玉多く摩黎山には栴檀生ず麗水の山には金あり、今此の所も此くの如し仏菩薩の住み給う功徳聚の砌なり、多くの月日を送り読誦し奉る所の法華経の功徳は虚空にも余りぬべし、然るを毎年度度の御参詣には無始の罪障も定めて今生一生に消滅すべきか、弥はげむべし・はげむべし。

  十月八日                      日蓮花押

   四条中務三郎左衛門殿御返事


四条金吾許御文

                    弘安三年十二月 五十九歳御作

                    与 四条金吾女房

白小袖一つ・緜十両・慥に給候い畢んぬ、歳もかたぶき候・又処は山の中・風はげしく庵室はかごの目の如し、うちしく物は草の葉・きたる物は・かみぎぬ身のひゆる事は石の如し、食物は冰の如くに候へば此の御小袖給候て頓て身をあたたまらんと・をもへども・明年の一日と・かかれて候へば迦葉尊者の雞足山にこもりて慈尊の出世・五十六億七千万歳をまたるるも・かくや・ひさしかるらん。

これは・さてをき候ぬ、しゐぢの四郎がかたり申し候・御前の御法門の事うけ給わり候こそ・よに・すずしく覚え候へ、此の御引出物に大事の法門一つかき付けてまいらせ候、八幡大菩薩をば世間の智者・愚者・大体は阿弥陀仏の化身と申し候ぞ、其れもゆへなきにあらず・中古の義に或は八幡の御託宣とて阿弥陀仏と申しける事少少候、此れはをのをの心の念仏者にて候故にあかき石を金と思いくひせをうさぎと見るが如し、其れ実には釈迦仏にておはしまし候ぞ、其の故は大隅の国に石体の銘と申す事あり、一つの石われて二つになる、一つの石には八幡と申す二字あり、一つの石の銘には「昔霊鷲山に於て妙法蓮華経を説き今正宮の中に在りて大菩薩と示現す」云云、是れ釈迦仏と申す第一の証文なり、此れよりも・ことに・まさしき事候、此の八幡大菩薩は日本国・人王第十四代・仲哀天皇は父なり、第十五代・神功皇后は母なり、第十六代・応神天皇は今の八幡大菩薩是なり、父の仲哀天皇は天照太神の仰せにて新羅国を責めんが為に渡り給いしが新羅の大王に調伏せられ給いて仲哀天皇は・はかたにて崩御ありしかば、きさきの神功皇后は此の太子を御懐妊ありながら・わたらせ給いしが、王の敵を・うたんとて数万騎のせいをあい具して新羅国へ渡り給いしに、浪の上・船の内にて王子御誕生の気いでき見え給う、其の時神