Nichiren・Ikeda

Search & Study

日蓮大聖人・池田大作

検索 & 研究 ver.9

二乗作仏事  (1/6) 月は西より東に向へり月氏の仏法の東へ流るべ…
589

は西より東に向へり月氏の仏法の東へ流るべき相なり、日は東より出づ日本の仏法の月氏へかへるべき瑞相なり、月は光あきらかならず在世は但八年なり、日は光明・月に勝れり五五百歳の長き闇を照すべき瑞相なり、仏は法華経謗法の者を治し給はず在世には無きゆへに、末法には一乗の強敵充満すべし不軽菩薩の利益此れなり、各各我が弟子等はげませ給へはげませ給へ。

 弘安三年太歳庚辰十二月 日日蓮花押

二乗作仏事

爾前得道の旨たる文、経に云く見諸菩薩等云云、又云く始見我身等、此等の文の如きは菩薩初地初住に叶う事有ると見えたるなり、故に見諸菩薩の文の下には而我等不預斯事と・又始見の文の下には除先修習等云云、此れは爾前に二乗作仏無しと見たる文なり。

問う顕露定教には二乗作仏を許すや顕露不定教には之を許すか秘密には之を許すか爾前の円には二乗作仏を許すや別教には之を許すか、答う所詮は重重の問答有りと雖も皆之を許さざるなり、所詮は二乗界の作仏を許さずんば菩薩界の作仏も許さざるか衆生無辺誓願度の願の闕くるが故なり、釈は菩薩の得道と見たる経文を消する許りなり、所詮華・方・般若の円の菩薩も初住に登らず又凡夫二乗は勿論なり化一切衆生皆令入仏道の文の下にて此の事は意得可きなり。

問う円の菩薩に向つては二乗作仏を説くか、答う説かざるなり未曾向人説如此事の釈に明かなり。

問う華厳経の三無差別の文は十界互具の正証なりや、答う次下の経に云く如来智慧の大薬王樹は唯二所を除き


て生長することを得ず所謂声聞と縁覚となり等云云二乗作仏を許さずと云う事分明なり、若し爾らば本文は十界互具と見えたれども実には二乗作仏無ければ十界互具を許さざるか、其の上爾前の経は法華経を以て定む可し既に除先修習等云云と云う華厳は二乗作仏無しと云う事分明なり方等般若も又以て此くの如し。

惣じて爾前の円に意得可き様・二有り、一には阿難結集の已前に仏は一音に必ず別円二教の義を含ませ一一の音に必ず四教三教を含ませ給えるなり、故に純円の円は爾前経には無きなり故に円と云えども今の法華に対すれば別に摂すと云うなり、籤の十に又一一の位に皆普賢行布の二門有り故に知んぬ兼ねて円門を用いて別に摂すと釈するなり此の意にて爾前に得道無しと云うなり、二には阿難結集の時・多羅葉に注す一段は純別・一段は純円に書けるなり方等・般若も此くの如し、此の時は爾前の純円に書ける処は粗法華に似たり、住中多明円融之相等と釈するは此の意なり。

天台智者大師は此の道理を得給いし故に他師の華厳など惣じて爾前の経を心得しには・たがい給えるなり、此の二の法門をば如何として天台大師は心得給いしぞとさぐれば法華経の信解品等を以て一一の文字別円の菩薩及び四教三教なりけりとは心得給いしなり、又此の智恵を得るの後にて彼等の経に向つて見る時は一向に別・一向に円等と見えたる処あり、阿難結集の後のしはざなりけりと見給えるなり、天台一宗の学者の中に此の道理を得ざるは爾前の円と法華の円と始終同の義を思う故に一処のみの円教の経を見て一巻二巻等に純円の義を存ずる故に彼の経等に於て往生成仏の義理を許す人人是れ多きなり、華厳・方等・般若・観経等の本文に於て阿難・円教の巻を書くの日に即身成仏云云即得往生等とあるを見て一生乃至順次生に往生成仏を遂げんと思いたり、阿難結集已前の仏口より出す所の説教にて意を案ずれば即身成仏・即得往生の裏に歴劫修行・永不往生の心含めり、句の三に云く摂論を引いて云く了義経・依文判義等と云う意なり、爾前の経を文の如く判ぜば仏意に乖く可しと云う


事は是なり、記の三に云く法華已前は不了義なる故と云えり此の心を釈せるなり、籤の十に云く「唯此の法華のみ前教の意を説き今経の意を顕す」と釈の意は是なり。

抑他師と天台との意の殊なる様は如何と云うに他師は一一の経経に向つて彼の経経の意を得たりと謂へり、天台大師は法華経に仏四十余年の経経を説き給へる意をもつて諸経を釈する故に阿難尊者の書きし所の諸経の本文にたがひたる様なれども仏意に相叶いたるなり、且らく観経の疏の如き経説には見えざれども一字に於て四教を釈す、本文は一処は別教・一処は円教・一処は通教に似たり、釈の四教に亘るは法華の意を以て仏意を知りたもう故なり、阿難尊者の結集する経にては一処は純別・一処は純円に書き別円を一字に含する義をば法華にて書きけり、法華にして爾前の経の意を知らしむるなり、若し爾らば一代聖教は反覆すと雖も法華経無くんば一字も諸経の意を知るべからざるなり、又法華経を読誦する行者も此の意を知らずんば法華経を読むにては有る可からず、爾前の経は深経なればと云つて浅経の意をば顕さず浅経なればと云つて又深義を含まざるにも非ず、法華経の意は一一の文字は皆爾前の意を顕し法華経の意をも顕す故に一字を読めば一切経を読むなり一字を読まざるは一切経を読まざるなり、若し爾らば法華経無き国には諸経有りと雖も得道は難かる可し、滅後に一切経を読む可き様は華厳経にも必ず法華経を列ねて彼の経の意を顕し観経にも必ず法華経を列ねて其の意を顕すべし諸経も又以て此くの如し、而るに月支の末の論師及び震旦の人師此の意を弁えず一経を講して各我得たりと謂い又超過諸経の謂いを成せるは曾て一経の意を得ざるのみに非ず謗法の罪に堕するか。

問う天竺の論師・震旦の人師の中に天台の如く阿難結集已前の仏口の諸経を此くの如く意得たる論師・人師之有るか、答う無著菩薩の摂論には四意趣を以て諸経を釈し、竜樹菩薩の大論には四悉檀を以て一代を得たり、此れ等は粗此の意を釈すとは見えたれども天台の如く分明には見えず、天親菩薩の法華論も又以て此くの如し、震旦