Nichiren・Ikeda

Search & Study

日蓮大聖人・池田大作

検索 & 研究 ver.9

閻浮提中御書 
1589

閻浮提中御書

閻浮提中飢餓□□□□示現閻浮提中□□□□、又云く又示現閻浮提中□□□劫起等云云、人王三十代□□国の聖明王□□□□□国にわたす王此れを用いずして三代仏罰にあたる□□□、釈迦仏を申し隠すとが□□念仏者等・善光寺の阿弥陀仏云云、上一人より下万民にいたるまで皆人□□□□此れをあらわす、日蓮にあだをなす人は惣て日蓮を犯す、天は惣て此国を□□□□□□言く「経を読誦し書持すること有らん者を見て軽賤憎嫉して結恨を懐かん」等云云、又云く「多病痟痩」第八に云く「諸悪重病」又第二に云く「若し医道を修し方に順て病を治せば更に他の疾を増し或は復死を致す」又云く「若し自ら病有らんに人の救療すること無く設い良薬を服すとも而も復増劇せん」等云云、弘法大師は後に望んで戯論と作す、東寺の一門上御室より下一切の東寺の門家は法華経を戯論と云云、叡山の座主並びに三千の大衆□日本国・山寺一同の云く□□□□□大日経等云云、智証大師の云く法華尚及ばず等云云、園城の長吏並びに一国の末流等の云く法華経は真言経に及ばずと云云、此の三師を用ゆる国主終に法皇尽了んぬ、明雲座主の義仲に殺されし、承久に御室思い死にせし是なり。

願くは我が弟子等は師子王の子となりて群狐に笑わるる事なかれ、過去遠遠劫より已来日蓮がごとく身命をすてて強敵の科を顕せ・師子は値いがたかるべし、国主の責め・なををそろし・いわうや閻魔のせめをや、日本国のせめは水のごとし・ぬるるを・をそるる事なかれ、閻魔のせめは火のごとし・裸にして入るとをもへ、大涅槃経の文の心は仏法を信じて今度生死をはなるる人のすこし心のゆるなるをすすめむがために疫病を仏のあたへ給うはげます心なり・すすむる心なり。


日蓮は凡夫なり天眼なければ一紙をもみとをすことなし、宿命なければ三世を知ることなし、而れども此の経文のごとく日蓮は肉眼なれども天眼宿命□□□日本国七百余歳の仏眼の流布せしやう、八宗・十宗の邪正漢土月氏の論師人師の勝劣・八万十二の仏経の旨趣をあらあらすいちし□□・我が朝の亡国となるべき事先に此れをかんがへて宛も符契のごとし、此れ皆法華経の御力なり、而るを国主は讒臣等が凶言を・をさめて・あだをなせしかば、凡夫なれば道理なりと・をもつて退する心なかりしかども・度度あだをな□□。

美食ををさめぬ人なれば力をよばず・山林にまじわり候いぬ、されども凡夫なればかんも忍びがたく・熱をもふせぎがたし、食ともし表○目が万里の一食・忍びがたく・思子孔が十旬・九飯堪ゆべきにあらず、読経の音も絶えぬべし・観心の心をろそかなり。

しかるに・たまたまの御とぶらいただ事にはあらず、教主釈尊の御すすめか・将又過去宿習の御催か、方方紙上に尽し難し、恐恐謹言。

衆生身心御書

衆生の身心をとかせ給う・其の衆生の心にのぞむとて・とかせ給へば人の説なれども衆生の心をいでず、かるがゆへに随他意の経となづけたり、譬へばさけもこのまぬをやのきわめてさけをこのむいとをしき子あり、かつはいとをしみ・かつは心をとらんがために・かれにさけをすすめんがために・父母も酒をこのむよしをするなり、しかるを・はかなき子は父母も酒をこのみ給うとをもへり。

提謂経と申す経は人天の事をとけり、阿含経と申す経は二乗の事をとかせ給う、華厳経と申す経は菩薩のこと


なり、方等・般若経等は或は阿含経・提謂経ににたり、或は華厳経にもにたり、此れ等の経経は末代の凡夫これをよみ候へば仏の御心に叶うらんとは行者はをもへども・くはしく・これをろむずれば己が心をよむなり、己が心は本よりつたなき心なれば・はかばかしき事なし、法華経と申すは随自意と申して仏の御心をとかせ給う、仏の御心はよき心なるゆへに・たとい・しらざる人も此の経をよみたてまつれば利益はかりなし、麻の中のよもぎ・つつの中のくちなは・よき人にむつぶもの・なにとなけれども心も・ふるまひも・言も・なをしくなるなり、法華経もかくのごとし・なにとなけれども・この経を信じぬる人をば仏のよき物とをぼすなり、此の法華経にをひて又機により・時により・国により・ひろむる人により・やうやうにかわりて候をば・等覚の菩薩までも・このあわひをば・しらせ給わずとみへて候、まして末代の凡夫は・いかでか・ちからひををせ候べき。

しかれども人のつかひに三人あり、一人はきわめてこざかしき、一人ははかなくもなし・又こざかしからず、一人はきわめて・はかなくたしかなる、此の三人に第一はあやまちなし、第二は第一ほどこそ・なけれども・すこしこざかしきゆへに主の御ことばに私の言をそうるゆへに・第一のわるきつかいとなる、第三はきわめて・はかなくあるゆへに・私の言をまじへず・きわめて正直なるゆへに主の言ばを・たがへず、第二よりもよき事にて候・あやまつて第一にも・すぐれて候なり、第一をば月支の四依にたとう、第二をば漢土の人師にたとう、第三をば末代の凡夫の中に愚癡にして正直なる物にたとう。

仏在世はしばらく此れををく仏の御入滅の次の日より一千年をば正法と申す、この正法一千年を二つにわかつ、前の五百年が間は小乗経ひろまらせ給う、ひろめし人人は迦葉・阿難等なり、後の五百年は馬鳴・竜樹・無著・天親等・権大乗経を弘通せさせ給う、法華経をば・かたはし計りかける論師もあり、又つやつや申しいださぬ人もあり、正法一千年より後の論師の中には少分を仏説ににたれども多分をあやまりあり、あやまりなくして而も