Nichiren・Ikeda

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日蓮大聖人・池田大作

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御義口伝巻下  (33/52) 桜梅桃李の己己の当体を改めずして
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と唱え奉る者は無作の三身覚前の実仏なり云云。

第二 量の字の事

御義口伝に云く量の字を本門に配当する事は量とは権摂の義なり、本門の心は無作三身を談ず此の無作三身とは仏の上ばかりにて之を云わず、森羅万法を自受用身の自体顕照と談ずる故に迹門にして不変真如の理円を明かす処を改めずして己が当体無作三身と沙汰するが本門事円三千の意なり、是れ即ち桜梅桃李の己己の当体を改めずして無作三身と開見すれば是れ即ち量の義なり、今日蓮等の類い南無妙法蓮華経と唱え奉る者は無作三身の本主なり云云。

第三 義の字の事

御義口伝に云く義とは観心なり、其の故は文は教相義は観心なり所説の文字を心地に沙汰するを義と云うなり、就中無量義は一法より無量の義を出生すと談ず、能生は義・所生は無量なり是は無量義経の能生・所生なり、法華経と無量義経とを相対する能所に非ざるなり無相不相名為実相の理より万法を開出すと云う、源が実相なる故に観心と云うなり、此くの如く無量義の三字を迹門・本門・観心に配当する事は法華の妙法等の題と今の無量義の題と一体不二の序正なりと相承の心を相伝せむが為なり。

第四 処の一字の事

御義口伝に云く処の一字は法華経なり、三蔵教と通教とは無の字に摂し別教は量の字に摂し円教は義の字に摂するなり、此の爾前の四教を所生と定めさて序分の此の経を能生と定めたり、能生を且く処と云い所生を無量義と定めたり、仍つて権教に相対して無量義処を沙汰するなり云云。

第五 無量義処の事


御義口伝に云く法華経八巻は処なり無量義経は無量義なり、無量義は三諦・三観・三身・三乗・三業なり法華経に於一仏乗・分別説三と説いて法華の為の序分と成るなり、爰を以て隔別の三諦は無得道・円融の三諦は得道と定むる故に四十余年未顕真実と破し給えり云云。

第六 無量義処の事

御義口伝に云く無量義処とは一念三千なり、十界各各無量に義処たり、此の当体其の儘実相の一理より外は之れ無きを諸法実相と説かれたり、其の為の序なる故に一念三千の序として無量義処と云うなり、処は一念無量義は三千なり、我等衆生朝夕吐く所の言語も依正二法共に無量に義処りたり、此れを妙法蓮華経とは云うなり然る間法華の為の序分開経なり云云。

       普賢経五箇の大事

第一 普賢経の事

題号に云く仏説観普賢菩薩行法経と云云。御義口伝に云く此の法華経は十界互具・三千具足の法体なれば三千十界悉く普賢なり、法界一法として漏るる義之れ無し故に普賢なり、妙法の十界蓮華の十界なれば依正の二法悉く法華経なりと結し納めたる経なれば此の普賢経を結経とは云うなり、然らば十界を妙法蓮華経と結し合せたり云云。

第二 不断煩悩不離五欲の事

御義口伝に云く此の文は煩悩即菩提生死即涅槃を説かれたり、法華の行者は貪欲は貪欲のまま瞋恚は瞋恚のまま愚癡は愚癡のまま普賢菩薩の行法なりと心得可きなり云云。

第三 六念の事

 念仏 念法 念僧 念戒 念施 念天

御義口伝に云く念仏とは唯我一人の導師なり、念法とは滅後は題目の五字なり念僧とは末法にては凡夫僧なり、念戒とは是名持戒なり、念施とは一切衆生に題目を授与するなり、念天とは諸天昼夜常為法故而衛護之の意なり、末法当今の行者の上なり之を思う可きなり云云。

第四 一切業障海皆従妄想生若欲懺悔者端坐思実相衆罪如霜露慧日能消除の事

御義口伝に云く衆罪とは六根に於て業障降り下る事は霜露の如し、然りと雖も慧日を以て能く消除すと云えり、慧日とは末法当今・日蓮所弘の南無妙法蓮華経なり、慧日とは仏に約し法に約するなり、釈尊をば慧日大聖尊と申すなり法華経を又如日天子能除諸闇と説かれたり、末法の導師を如日月光明等と説かれたり。

第五 正法治国不邪枉人民の事

御義口伝に云く末法の正法とは南無妙法蓮華経なり、此の五字は一切衆生をたぼらかさぬ秘法なり、正法を天下一同に信仰せば此の国安穏ならむ、されば玄義に云く「若し此の法に依れば即ち天下泰平」と、此の法とは法華経なり法華経を信仰せば天下安全たらむ事疑有る可からざるなり。

已上二百三十一箇条の大事

   廿八品に一文充の大事  合せて廿八箇条の大事秘す可し云云

     序品

此の文我が心本より覚なりと始めて覚るを成仏と云うなり所謂南無妙法蓮華経と始めて覚る題目なり。