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日蓮大聖人・池田大作

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報恩抄  (8/37) 天台大師の御気色は師子王の狐兎の前に吼えた…
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に勝れたる経文を取り出だして御師の御義を助け給えとせめたり。

又涅槃経を法華経に勝るると候けるは・いかなる経文ぞ涅槃経の第十四には華厳・阿含・方等・般若をあげて涅槃経に対して勝劣は説れて候へどもまつたく法華経と涅槃経との勝劣はみへず、次上の第九の巻に法華経と涅槃経との勝劣分明なり、所謂経文に云く「是の経の出世は乃至法華の中の八千の声聞・記莂を受くることを得て大菓実を成ずるが如き秋収冬蔵して更に所作無きが如し」等云云、経文明に諸経をば春夏と説かせ給い涅槃経と法華経とをば菓実の位とは説かれて候へども法華経をば秋収冬蔵の大菓実の位・涅槃経をば秋の末・冬の始捃拾の位と定め給いぬ、此の経文正く法華経には我が身劣ると承伏し給いぬ、法華経の文には已説・今説・当説と申して此の法華経は前と並との経経に勝れたるのみならず後に説かん経経にも勝るべしと仏定め給う、すでに教主釈尊かく定め給いぬれば疑うべきにあらねども我が滅後はいかんかと疑いおぼして東方・宝浄世界の多宝仏を証人に立て給いしかば多宝仏・大地よりをどり出でて妙法華経・皆是真実と証し十方分身の諸仏重ねてあつまらせ給い広長舌を大梵天に付け又教主釈尊も付け給う、然して後・多宝仏は宝浄世界えかへり十方の諸仏各各本土にかへらせ給いて後多宝分身の仏もおはせざらんに教主釈尊・涅槃経をといて法華経に勝ると仰せあらば御弟子等は信ぜさせ給うべしやとせめしかば日月の大光明の修羅の眼を照らすがごとく漢王の剣の諸侯の頸にかかりしがごとく両眼をとぢ一頭を低れたり、天台大師の御気色は師子王の狐兎の前に吼えたるがごとし鷹鷲の鳩雉をせめたるににたり、かくのごとくありしかば・さては法華経は華厳経・涅槃経にもすぐれてありけりと震旦一国に流布するのみならずかへりて五天竺までも聞へ月氏・大小の諸論も智者大師の御義には勝れず教主釈尊・両度出現しましますか仏教二度あらはれぬとほめられ給いしなり。

其の後天台大師も御入滅なりぬ陳隋の世も代わりて唐の世となりぬ章安大師も御入滅なりぬ、天台の仏法やう


やく習い失せし程に唐の太宗の御宇に玄奘三蔵といゐし人・貞観三年に始めて月氏に入りて同十九年にかへりしが月氏の仏法尋ね尽くして法相宗と申す宗をわたす、此の宗は天台宗と水火なり而るに天台の御覧なかりし深密経・瑜伽論・唯識論等をわたして法華経は一切経には勝れたれども深密には劣るという、而るを天台は御覧なかりしかば天台の末学等は智慧の薄きかのゆへに・さもやとおもう、又太宗は賢王なり玄奘の御帰依あさからず、いうべき事ありしかども・いつもの事なれば時の威をおそれて申す人なし、法華経を打ちかへして三乗真実・一乗方便・五性各別と申せし事は心うかりし事なり、天竺よりは・わたれども月氏の外道が漢土にわたれるか法華経は方便・深密経は真実といゐしかば釈迦・多宝・十方の諸仏の誠言もかへりて虚くなり玄奘・慈恩こそ時の生身の仏にてはありしか。

其後則天皇后の御宇に天台大師にせめられし華厳経に又重ねて新訳の華厳経わたりしかば、さきのいきどをりをはたさんがために新訳の華厳をもつて天台にせめられし旧訳の華厳経を扶けて華厳宗と申す宗を法蔵法師と申す人立てぬ、此の宗は華厳経をば根本法輪・法華経をば枝末法輪と申すなり、南北は一華厳・二涅槃・三法華・天台大師は一法華・二涅槃・三華厳・今の華厳宗は一華厳・二法華・三涅槃等云云。

其の後玄宗皇帝の御宇に天竺より善無畏三蔵は大日経・蘇悉地経をわたす、金剛智三蔵は金剛頂経をわたす、又金剛智三蔵の弟子あり不空三蔵なり、此の三人は月氏の人・種姓も高貴なる上・人がらも漢土の僧ににず法門もなにとはしらず後漢より今にいたるまで・なかりし印と真言という事をあひそいて・ゆゆしかりしかば天子かうべをかたぶけ万民掌をあわす、此の人人の義にいわく華厳・深密・般若・涅槃・法華経等の勝劣は顕教の内・釈迦如来の説の分なり、今の大日経等は大日法王の勅言なり彼の経経は民の万言此経は天子の一言なり、華厳経・涅槃経等は大日経には梯を立ても及ばず但法華経計りこそ大日経には相似の経なれ、されども彼の経は釈迦如来の説・


民の正言・此の経は天子の正言なり言は似れども人がら雲泥なり、譬へば濁水の月と清水の月のごとし月の影は同じけれども水に清濁ありなんど申しければ、此の由尋ね顕す人もなし諸宗皆落ち伏して真言宗にかたぶきぬ、善無畏・金剛智・死去の後・不空三蔵又月氏にかへりて菩提心論と申す論をわたしいよいよ真言宗盛りなりけり、但し妙楽大師といふ人あり天台大師よりは二百余年の後なれども智慧かしこき人にて天台の所釈を見明めてありしかば天台の釈の心は後にわたれる深密経・法相宗又始めて漢土に立てたる華厳宗・大日経真言宗にも法華経は勝れさせ給いたりけるを、或は智のをよばざるか或は人に畏るるか或は時の王威をおづるかの故にいはざりけるかかくて・あるならば天台の正義すでに失なん、又陳隋已前の南北が邪義にも勝れたりとおぼして三十巻の末文を造り給う所謂弘決・釈籤・疏記これなり、此の三十巻の文は本書の重なれるをけづりよわきをたすくるのみならず天台大師の御時なかりしかば御責にものがれてあるやうなる法相宗と華厳宗と真言宗とを一時にとりひしがれたる書なり。

又日本国には人王第三十代・欽明天皇の御宇十三年壬申十月十三日に百済国より一切経・釈迦仏の像をわたす、又用明天皇の御宇に聖徳太子仏法をよみはじめ和気の妹子と申す臣下を漢土につかはして先生所持の一巻の法華経をとりよせ給いて持経と定め、其の後人王第三十七代・孝徳天王の御宇に三論宗・華厳宗・法相宗・倶舎宗・成実宗わたる、人王第四十五代に聖武天王の御宇に律宗わたる已上六宗なり、孝徳より人王五十代の桓武天皇にいたるまでは十四代・一百二十余年が間は天台真言の二宗なし、桓武の御宇に最澄と申す小僧あり山階寺の行表僧正の御弟子なり、法相宗を始めとして六宗を習いきわめぬ而れども仏法いまだ極めたりとも・おぼえざりしに華厳宗の法蔵法師が造りたる起信論の疏を見給うに天台大師の釈を引きのせたり此の疏こそ子細ありげなれ此の国に渡りたるか又いまだ・わたらざるかと不審ありしほどに有人にとひしかば其の人の云く大唐の揚州竜興