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日蓮大聖人・池田大作

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内房女房御返事  (4/5) されば過去の慈父尊霊は存生に南無妙法蓮華経…
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然るに今の世の南無阿弥陀仏と申す人人、南無妙法蓮華経と申す人を或は笑ひ或はあざむく、此れは世間の譬に稗の稲をいとひ家主の田苗を憎む是なり、是国将なき時の盗人なり日の出でざる時の鼹なり、夜打強盗の科めなきが如く地中の自在なるが如し、南無妙法蓮華経と申す国将と日輪とにあはば大火の水に消へ猨猴が犬に値うなるべし、当時南無阿弥陀仏の人人・南無妙法蓮華経の御声の聞えぬれば、或は色を失ひ或は眼を瞋らし或は魂を滅し或は五体をふるふ、伝教大師云く日出れば星隠れ巧を見て拙きを知る、竜樹菩薩云く謬辞失い易く邪義扶け難し、徳慧菩薩云く面に死喪の色有り言に哀怨の声を含む、法歳云く昔の義虎今は伏鹿なり等云云、此等の意を以て知ぬべし、妙法蓮華経の徳あらあら申し開くべし、毒薬変じて薬となる妙法蓮華経の五字は悪変じて善となる、玉泉と申す泉は石を玉となす此の五字は凡夫を仏となす、されば過去の慈父尊霊は存生に南無妙法蓮華経と唱へしかば即身成仏の人なり、石変じて玉と成るが如し孝養の至極と申し候なり、故に法華経に云く「此の我が二りの子已に仏事を作しぬ」又云く「此の二りの子は是我が善知識なり」等云云。

乃往過去の世に一の大王あり名を輪陀と申す、此の王は白馬の鳴くを聞きて色も・いつくしく力も強く供御を進らせざれども食にあき給ふ他国の敵も冑を脱き掌を合す、又此の白馬鳴く事は白鳥を見て鳴きけり、然るに大王の政や悪しかりけん又過去の悪業や感じけん、白鳥皆失せて一羽もなかりしかば白馬鳴く事なし、白馬鳴かざりければ大王の色も変じ力も衰へ身もかじけ謀も薄くなりし故に国既に乱れぬ、他国よりも兵者せめ来らんに何とかせんに歎きし程に、大王の勅宣に云く国には外道多し皆我が帰依し奉る仏法も亦かくの如し、然るに外道と仏法と中悪し何にしても白馬を鳴かせん方を信じて一方を我が国に失ふべしと云云、爾の時に一切の外道集りて白鳥を現じて白馬を鳴かせんとせしかども白鳥現ずる事な


し、昔は雲を出だし霧をふらし風を吹かせ波をたて身の上に火を出だし水を現じ人を馬となし馬を人となし一切自在なりしかども、如何がしけん白鳥を現ずる事なかりき、爾の時に馬鳴菩薩と申す仏子あり十方の諸仏に祈願せしかば白鳥則出で来りて白馬則鳴けり、大王此を聞食し色も少し出で来り力も付きはだへもあざやかなり、又白鳥又白鳥と千の白鳥出現して千の白馬一時に鶏の時をつくる様に鳴きしかば、大王此の声を聞食し色は日輪の如し膚は月の如し力は那羅延の如し謀は梵王の如し、爾の時に綸言汗の如く出でて返らざれば一切の外道等其の寺を仏寺となしぬ。

今日本国亦かくの如し、此の国は始めは神代なり漸く代の末になる程に人の意曲り貪瞋癡・強盛なれば神の智浅く威も力も少し、氏子共をも守護しがたかりしかば・漸く仏法と申す大法を取り渡して人の意も直に神も威勢強かりし程に、仏法に付き謬り多く出来せし故に国あやうかりしかば、伝教大師漢土に渡りて日本と漢土と月氏との聖教を勘へ合せて、おろかなるをば捨て賢きをば取り偏頗もなく勘へ給いて、法華経の三部を鎮護国家の三部と定め置きて候しを、弘法大師・慈覚大師・智証大師と申せし聖人等、或は漢土に事を寄せ或は月氏に事を寄せて法華経を或は第三・第二・或は戯論・或は無明の辺域等と押し下し給いて、法華経を真言の三部と成さしめて候いし程に、代漸く下剋上し此の邪義既に一国に弘まる、人多く悪道に落ちて神の威も漸く滅し氏子をも守護しがたき故に八十一乃至八十五の五主は或は西海に沈み或は四海に捨てられ・今生には大鬼となり後生は無間地獄に落ち給いぬ、然りといえども此の事知れる人なければ改る事なし、今日蓮此の事をあらあら知る故に国の恩を報ぜんとするに日蓮を怨み給ふ。

此等はさて置きぬ氏女の慈父は輪陀王の如し氏女は馬鳴菩薩の如し、白鳥は法華経の如し・白馬は日蓮が如し・南無妙法蓮華経は白馬の鳴くが如し、大王の聞食して色も盛んに力も強きは、過去の慈父が氏女の南無妙法蓮華経の御音を聞食して仏に成せ給ふが如し。

  弘安三年八月十四日                 日蓮花押

   内房女房御返事


治部房御返事

白米一斗・蘘荷の子・はじかみ一つと送り給び候い畢んぬ。

仏には春の花秋の紅葉・夏の清水・冬の雪を進らせて候人人皆仏に成らせ給ふ、況や上一人は寿命を持たせ給ひ下万民は珠よりも重くし候稲米を法華経にまいらせ給う人・争か仏に成らざるべき、其の上世間に人の大事とする事は主君と父母との仰せなり、父母の仰せを背けば不孝の罪に堕ちて天に捨てられ、国主の仰せを用いざれば違勅の者と成りて命をめさる、されば我等は過去遠遠劫より菩提をねがひしに、或は国をすて或は妻子をすて或は身をすてなんどして、後生菩提をねがひし程にすでに仏になり近づきし時は、一乗妙法蓮華経と申す御経に値いまいらせ候いし時は、第六天の魔王と申す・三界の主・をはします、すでに此のもの仏にならんとするに二の失あり、一には此のもの三界を出ずるならば我が所従の義をはなれなん、二には此のもの仏になるならば此のものが父母・兄弟等も又娑婆世界を引き越しなん、いかがせんとて身を種種に分けて・或は父母につき・或は国主につき、或は貴き僧となり、或は悪を勧め・或はおどし・或はすかし、或は高僧或は大僧或は智者或は持斎等に成りて或は華厳或は阿含或は念仏或は真言等を以て法華経にすすめかへて・仏になさじとたばかり候なり、法華経第五の巻には末法に入りては大鬼神・第一には国王・大臣・万民の身に入りて法華経の行者を或は罵り或は打ち切りて、それに叶はずんば無量無辺の僧と現じて一切経を引いてすかすべし、それに叶はずんば二百五十戒・三千の威儀を備へたる大僧と成りて国主をすかし国母をたぼらかして、或はながし或はころしなんどすべしと説かれて候。