Nichiren・Ikeda

Search & Study

日蓮大聖人・池田大作

検索 & 研究 ver.9

富木殿御返事 
962

富木殿御返事

                    文永九年四月 五十一歳御作

                    於佐渡一の谷

御返事

 日蓮が臨終一分も疑無く頭を刎ねらるる時は殊に喜悦有るべし、大賊に値うて大毒を宝珠に易ゆと思う可きか。

鵞目員数の如く給び候い畢んぬ御志申し送り難く候、法門の事先度四条三郎左衛門尉殿に書持せしむ其の書能く能く御覧有る可し、粗経文を勘え見るに日蓮法華経の行者為る事疑無きか但し今に天の加護を蒙らざるは一には諸天善神此の悪国を去る故か、二には善神法味を味わざる故に威光勢力無きか、三には大悪鬼三類の心中に入り梵天帝釈も力及ばざるか等、一一の証文道理追て進せしむ可く候、但生涯本より思い切て候今に飜返ること無く其の上又違恨無し諸の悪人は又善知識なり、摂受・折伏の二義仏説に依る、敢て私曲に非ず万事霊山浄土を期す、恐恐謹言。

  卯月十日                      日蓮花押

   土木殿


土木殿御返事

                    文永十年七月 五十二歳御作

鵞目二貫給候い畢んぬ、太田殿と其れと二人の御心喜び候、伊与房は機量物にて候ぞ今年留め候い畢んぬ、御勘気ゆりぬ事・御歎き候べからず候、当世・日本国子細之れ有る可き由之を存ず定めて勘文の如く候べきか、設い日蓮死生不定為りと雖も妙法蓮華経の五字の流布は疑い無き者か伝教大師は御本意の円宗を日本に弘めんとす、但し定慧は存生に之を弘め円戒は死後に之を顕す事法為る故に一重大難之れ有るか、仏滅後二千二百二十余年今に寿量品の仏と肝要の五字とは流布せず、当時果報を論ずれば恐らくは伝教・天台にも超え竜樹・天親にも勝れたるか、文理無くんば大慢豈之に過んや、章安大師天台を褒めて云く「天竺の大論尚其の類に非ず真旦の人師何ぞ労しく語るに及ばん此れ誇耀に非ず法相の然らしむるのみ」等云云、日蓮又復是くの如し竜樹天親等尚其の類に非ず等云云、此れ誇耀に非ず法相の然らしむるのみ、故に天台大師日蓮を指して云く「後の五百歳遠く妙道に沾わん」等云云、伝教大師当世を恋いて云く「末法太はだ近きに有り」等云云、幸いなるかな我が身「数数見擯出」の文に当ること悦ばしいかな悦ばしいかな、諸人の御返事に之を申す故に委細、恐恐。

  七月六日                      日蓮花押

   土木殿御返事


富木殿御書

                    文永十一年 五十三歳御作

けかち申すばかりなし米一合もうらずがししぬべし、此の御房たちも・みなかへして但一人候べし、このよしを御房たちにもかたりさせ給へ。十二日さかわ十三日たけのした十四日くるまがへし十五日ををみや十六日なんぶ、十七日このところ・いまださだまらずといえども、たいしはこの山中・心中に叶いて候へば・しばらくは候はんずらむ、結句は一人になりて日本国に流浪すべきみにて候、又たちとどまるみならば・けさんに入り候べし、恐恐謹言。

  十七日                       日蓮在御判

   ときどの

土木殿御返事

仕候なり

褒美に非ず実に器量者なり、来年正月大進阿闍梨房と越中と之を遣わし去るべく候、白小袖一つ給い候い畢んぬ、今年日本国一同に飢渇の上佐渡の国には七月七日已下天より忽ちに石灰虫と申す虫と雨等にて一時に稲穀損し其の上疫病処処に遍満し方方死難脱れ難きか、事事紙上に尽し難く候、恐恐謹言。

  十一月三日                     日蓮在御判

   土木殿御返事