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日蓮大聖人・池田大作

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減劫御書  (2/2) 世間の治世の法を能く能く心へて候を智者とは…
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も治めがたき事なり、其の故は貪欲をば仏不浄観の薬をもて治し・瞋恚をば慈悲観をもて治し・愚癡をば十二因縁観をもてこそ治し給うに・いまは此の法門をとひて人を・をとして貪欲・瞋恚・愚癡をますなり、譬へば火をば水をもつてけす・悪をば善をもつて打つ・しかるにかへりて水より出ぬる火をば水をかくればあぶらになりていよいよ大火となるなり。

今末代悪世に世間の悪より出世の法門につきて大悪出生せり、これをば・しらずして今の人人・善根をすすれば・いよいよ代のほろぶる事出来せり、今の代の天台真言等の諸宗の僧等をやしなうは・外は善根とこそ見ゆれども内は十悪五逆にもすぎたる大悪なり、しかれば代のをさまらん事は大覚世尊の智慧のごとくなる智人世に有りて・仙予国王のごとくなる賢王とよりあひて・一向に善根をとどめ大悪をもつて八宗の智人とをもうものを・或はせめ或はながし或はせをとどめ或は頭をはねてこそ代はすこし・をさまるべきにて候へ。

法華経の第一の巻の「諸法実相乃至唯仏と仏と乃ち能く究尽し給う」ととかれて候はこれなり、本末究竟と申すは本とは悪のね善の根・末と申すは悪のをわり善の終りぞかし、善悪の根本枝葉をさとり極めたるを仏とは申すなり、天台云く「夫れ一心に十法界を具す」等云云、章安云く「仏尚此れを大事と為す易解を得べきなり」妙楽云く「乃至終窮究竟の極説なり」等云云、法華経に云く「皆実相と相違背せず」等云云、天台之を承けて云く「一切世間の治生産業は皆実相と相違背せず」等云云、智者とは世間の法より外に仏法を行ず、世間の治世の法を能く能く心へて候を智者とは申すなり、殷の代の濁りて民のわづらいしを大公望出世して殷の紂が頸を切りて民のなげきをやめ、二世王が民の口ににがかりし張良出でて代ををさめ民の口をあまくせし、此等は仏法已前なれども教主釈尊の御使として民をたすけしなり、外経の人人は・しらざりしかども彼等の人人の智慧は内心には仏法の智慧をさしはさみたりしなり。


今の代には正嘉の大地震・文永の大せひせひの時智慧かしこき国主あらましかば日蓮をば用いつべかりしなり、それこそなからめ文永九年のどしうち・十一年の蒙古のせめの時は周の文王の大公望をむかへしがごとく・殷の高丁王の傅悦を七里より請せしがごとくすべかりしぞかし、日月は生盲の者には財にあらず賢人をば愚王のにくむとはこれなり、しげきゆへにしるさず、法華経の御心と申すはこれてひの事にて候・外のことと・をぼすべからず、大悪は大善の来るべき瑞相なり、一閻浮提うちみだすならば閻浮提内広令流布はよも疑い候はじ。

此の大進阿闍梨を故六郎入道殿の御はかへつかわし候、むかし・この法門を聞いて候人人には関東の内ならば我とゆきて其のはかに自我偈よみ候はんと存じて候、しかれども当時のありさまは日蓮かしこへゆくならば其の日に一国にきこへ・又かまくらまでもさわぎ候はんか、心ざしある人なりともゆきたらんところの人人めををそれぬべし、いままでとぶらい候はねば聖霊いかにこひしくをはすらんと・をもへば・あるやうもありなん、そのほど・まづ弟子をつかわして御はかに自我偈を・よませまいらせしなり、其の由御心へ候へ、恐恐。

高橋殿御返事

米穀も又又かくの如し、同じ米穀なれども謗法の者をやしなうは仏種をたつ命をついで弥弥強盛の敵人となる、又命をたすけて終に法華経を引き入るべき故か、又法華の行者をやしなうは慈悲の中の大慈悲の米穀なるべし、一切衆生を利益するなればなり、故に仏舎利変じて米と成るとは是なるべし、かかる今時分人をこれまでつかはし給う事うれしさ申すばかりなし、釈迦仏・地涌の菩薩・御身に入りかはらせ給うか。

其の国の仏法は貴辺にまかせたてまつり候ぞ、仏種は縁に従つて起る是の故に一乗を説くなるべし、又治部房・下野房等来り候はば・いそぎいそぎつかはすべく候、松野殿にも見参候はば・くはしくかたらせ給へ。


三三蔵祈雨事

                    建治元年六月 五十四歳御作

                    与 西山入道

夫れ木をうえ候には大風吹き候へどもつよきすけをかひぬれば・たうれず、本より生いて候木なれども根の弱きは・たうれぬ、甲斐無き者なれども・たすくる者強ければたうれず、すこし健の者も独なれば悪しきみちには・たうれぬ、又三千大千世界のなかには舎利弗・迦葉尊者をのぞいては仏よにいで給はずば一人もなく三悪道に堕つべかりしが、仏を・たのみまいらせし強縁によりて一切衆生は・をほく仏になりしなり、まして阿闍世王・あうくつ摩羅なんど申せし悪人どもは・いかにも・かなうまじくて必ず阿鼻地獄に堕つべかりしかども・教主釈尊と申す大人にゆきあはせ給いてこそ仏にはならせ給いしか、されば仏になるみちは善知識にはすぎず、わが智慧なににかせん、ただあつきつめたきばかりの智慧だにも候ならば善知識たいせちなり、而るに善知識に値う事が第一のかたき事なり、されば仏は善知識に値う事をば一眼のかめの浮木に入り・梵天よりいとを下て大地のはりのめに入るにたとへ給へり、而るに末代悪世には悪知識は大地微塵よりもをほく善知識は爪上の土よりもすくなし、補陀落山の観世音菩薩は善財童子の善知識・別円二教ををしへて・いまだ純円ならず、常啼菩薩は身をうて善知識をもとめしに曇無竭菩薩にあへり、通別円の三教をならひて法華経ををしへず、舎利弗は金師が善知識・九十日と申せしかば闡提の人となしたりき、ふるなは一夏の説法に大乗の機を小人となす、大聖すら法華経をゆるされず証果のらかん機をしらず、末代悪世の学者等をば此をもつてすいしぬべし、天を地といゐ東を西といゐ・火を水とをしへ・星は月にすぐれたり、ありづかは須弥山にこへたり、なんど申す人人を信じて候はん人人は・ならはざらん悪人に・はるかをとりてをしかりぬべし。

日蓮仏法をこころみるに道理と証文とにはすぎず、又道理証文よりも現証にはすぎず、而るに去る文永五年の