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日蓮大聖人・池田大作

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十八円満抄  (1/6) か、まことに宿縁のをふところ予が弟子となり…
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か、まことに宿縁のをふところ予が弟子となり給う、此の文あひかまへて秘し給へ、日蓮が己証の法門等かきつけて候ぞ、とどめ畢んぬ

   最蓮房御返事

十八円満抄

                    日蓮之を記す

問うて云く十八円満の法門の出処如何、答えて云く源・蓮の一字より起れるなり、問うて云く此の事所釈に之を見たりや、答えて云く伝教大師の修禅寺相伝の日記に之在り此法門は当世天台宗の奥義なり秘すべし秘すべし。

問うて云く十八円満の名目如何、答えて云く一に理性円満・二に修行円満・三に化用円満・四に果海円満・五に相即円満・六に諸教円満・七に一念円満・八に事理円満・九に功徳円満・十に諸位円満・十一に種子円満・十二に権実円満・十三に諸相円満・十四に俗諦円満・十五に内外円満・十六に観心円満・十七に寂照円満・十八に不思議円満已上

問うて云く意如何、答えて云く此の事伝教大師の釈に云く次に蓮の五重玄とは蓮をば華因成果の義に名く、蓮の名は十八円満の故に蓮と名く、一に理性円満謂く万法悉く真如法性の実理に帰す実性の理に万法円満す故に理性を指して蓮と為す、二に修行円満謂く有相・無相の二行を修して万行円満す故に修行を蓮と為す、三に化用円満謂く心性の本理に諸法の因分有り此の因分に由つて化他の用を具す故に蓮と名く、四に果海円満とは諸法の自性を尋ねて悉く本性を捨て無作の三身を成す法として無作の三身に非ること無し故に蓮と名く、五に相即円満謂く煩悩の自性全く菩提にして一体不二の故に蓮と為す、六に諸教円満とは諸仏の内証の本蓮に諸教を具足して更に闕減なきが故に、七に一念円満謂く根塵相対して一念の心起るに三千世間を具するが故に、八に事理円満とは


一法の当体而二不二にして闕減無く具足するが故に、九に功徳円満謂く妙法蓮華経に万行の功徳を具して三力の勝能有るが故に、十に諸位円満とは但だ一心を点ずるに六即円満なるが故に、十一に種子円満とは一切衆生の心性に本より成仏の種子を具す・権教は種子円満無きが故に・皆成仏道の旨を説かず故に蓮の義無し、十二に権実円満謂く法華実証の時は実に即して而かも権・権に即して而かも実・権実相即して闕減無き故に円満の法にして既に三身を具するが故に諸仏常に法を演説す、十三に諸相円満謂く一一の相の中に皆八相を具して一切の諸法常に八相を唱う、十四に俗諦円満謂く十界・百界乃至三千の本性常住不滅なり本位を動せず当体即理の故に、十五に内外円満謂く非情の外器に内の六情を具す有情数の中に亦非情を具す、余教は内外円満を説かざるが故に草木成仏すること能わず草木非成仏の故に亦蓮と名けず十六に観心円満とは六塵六作常に心相を観ず更に余義に非るが故に、十七に寂照円満とは文に云く法性寂然なるを止と名く寂にして而かも常に照すを観と名くと、十八に不思議円満謂く細しく諸法の自性を尋ねるに非有非無にして諸の情量を絶して亦三千三観並びに寂照等の相無く大分の深義本来不思議なるが故に名けて蓮と為るなり、此の十八円満の義を以て委く経意を案ずるに今経の勝能並に観心の本義良とに蓮の義に由る、二乗・悪人草木等の成仏並びに久遠塵点等は蓮の徳を離れては余義有ること無し、座主の伝に云く玄師の正決を尋ねるに十九円満を以て蓮と名く所謂当体円満を加う、当体円満とは当体の蓮華なり謂く諸法自性清浄にして染濁を離るるを本より蓮と名く、一経の説に依るに一切衆生の心の間に八葉の蓮華有り男子は上に向い女人は下に向う、成仏の期に至れば設い女人なりと雖も心の間の蓮華速かに還りて上に向う、然るに今の蓮仏意に在るの時は本性清浄当体の蓮と成る若し機情に就いては此の蓮華譬喩の蓮と成る。

次に蓮の体とは体に於て多種有り、一には徳体の蓮謂く本性の三諦を蓮の体と為す、二には本性の蓮体三千の諸法本より已来当体不動なるを蓮の体と為す、三には果海真善の体一切諸法は本是れ三身にして寂光土に住す設


い一法なりと雖も三身を離れざる故に三身の果を以て蓮の体と為す、四には大分真如の体謂く不変・随縁の二種の真如を並びに証分の真如と名く本迹寂照等の相を分たず諸法の自性不可思議なるを蓮の体と為す。

次に蓮の宗とは果海の上の因果なり、和尚の云く六即の次位は妙法蓮華経の五字の中には正しく蓮の字に在り蓮門の五重玄の中には正しく蓮の字より起る、所以何ん理即は本性と名く本性の真如・理性円満の故に理即を蓮と名け果海本性の解行証の位に住するを果海の次位と名く、智者大師自解仏乗の内証を以て明に経旨を見給うに蓮の義に於て六即の次位を建立し給えり故に文に云く此の六即の義は一家より起れりと、然るに始覚の理に依て在纒真如を指して理即と為し妙覚の証理を出纒真如と名く、正く出纒の為めに諸の万行を修するが故に法性の理の上の因果なり故に亦蓮の宗と名く蓮に六の勝能有り一には自性清浄にして泥濁に染まず理即、二には華・台・実の三種具足して減すること無し名字即・諸法即是れ三諦と解了するが故に、三には初め種子より実を成ずるに至るまで華・台・実の三種相続して断ぜず観行即・念念相続して修し廃するなき故に、四には華葉の中に在つて未熟の実真の実に似たり相似即、五には花開き蓮現ず分真即、六には花落ちて蓮成ず究竟即、此の義を以ての故に六即の深義は源・蓮の字より出でたり。

次に蓮の用とは六即円満の徳に由つて常に化用を施すが故に。

次に蓮の教とは本有の三身果海の蓮性に住して常に浄法を説き八相成道し四句成利す、和尚云く証道の八相は無作三身の故に四句の成道は蓮教の処に在り只無作三身を指して本覚の蓮と為す、此の本蓮に住して常に八相を唱へ常に四句の成道を作す故なり已上、修禅寺相伝の日記之を見るに妙法蓮華経の五字に於て各各五重玄なり蓮の字の五重玄義・此くの如し余は之を略す、日蓮案じて云く此の相伝の義の如くんば万法の根源、一心三観・一念三千・三諦・六即・境智の円融・本迹の所詮源蓮の一字より起る者なり云云。

問うて云く総説の五重玄とは如何、答えて云く総説の五重玄とは妙法蓮華経の五字即五重玄なり、妙は名・法