Nichiren・Ikeda

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日蓮大聖人・池田大作

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撰時抄  (33/37) 智人は起をしる蛇みづから蛇をしるとはこれな…
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気色いかりすくなからず・きうに見へて候よも今年はすごし候はじと語りたりき、此の三つの大事は日蓮が申したるにはあらず只偏に釈迦如来の御神・我身に入りかわせ給いけるにや我が身ながらも悦び身にあまる法華経の一念三千と申す大事の法門はこれなり、経に云く所謂諸法如是相と申すは何事ぞ十如是の始の相如是が第一の大事にて候へば仏は世にいでさせ給う、智人は起をしる蛇みづから蛇をしるとはこれなり、衆流あつまりて大海となる微塵つもりて須弥山となれり、日蓮が法華経を信じ始めしは日本国には一渧・一微塵のごとし、法華経を二人・三人・十人・百千万億人・唱え伝うるほどならば妙覚の須弥山ともなり大涅槃の大海ともなるべし仏になる道は此れよりほかに又もとむる事なかれ。

問うて云く第二の文永八年九月十二日の御勘気の時はいかにとして我をそんせば自他のいくさをこるべしとはしり給うや、答う大集経五十に云く「若し復諸の刹利国王諸の非法を作し世尊の声聞の弟子を悩乱し若しは以て毀罵し刀杖をもて打斫し及び衣鉢種種の資具を奪い若しは他の給施に留難を作す者有らば我等彼をして自然に卒に他方の怨敵を起さしめ及び自界の国土にも亦兵起り飢疫飢饉非時の風雨闘諍言訟譏謗せしめ、又其の王をして久しからずして復当に己れが国を亡失せしむべし」等云云、夫れ諸経に諸文多しといえども此の経文は身にあたり時にのぞんで殊に尊くをぼうるゆへにこれをせんしいだす、此の経文に我等とは梵王と帝釈と第六天の魔王と日月と四天等の三界の一切の天竜等なり、此等の上主・仏前に詣して誓つて云く仏の滅後・正法・像法・末代の中に正法を行ぜん者を邪法の比丘等が国主にうつたへば王に近きもの王に心よせなる者・我がたつとしとをもう者のいうことなれば理不尽に是非を糾さず・彼の智人をさんざんとはぢにをよばせなんどせば、其の故ともなく其の国ににわかに大兵乱・出現し後には他国にせめらるべし其の国主もうせ其の国もほろびなんずととかれて候、いたひとかゆきとはこれなり、予が身には今生にはさせる失なし但国をたすけんがため生国の恩をほうぜんと申せし


を御用いなからんこそ本意にあらざるに、あまさへ召し出して法華経の第五の巻を懐中せるをとりいだしてさんざんとさいなみ、結句はこうぢをわたしなんどせしかば申したりしなり、日月天に処し給いながら日蓮が大難にあうを今度かわらせ給はずば一つには日蓮が法華経の行者ならざるか忽に邪見をあらたむべし、若し日蓮・法華経の行者ならば忽に国にしるしを見せ給へ若ししからずば今の日月等は釈迦・多宝・十方の仏をたぶらかし奉る大妄語の人なり、提婆が虚誑罪・倶伽利が大妄語にも百千万億倍すぎさせ給へる大妄語の天なりと声をあげて申せしかば忽に出来せる自界反逆難なり、されば国土いたくみだれば我身はいうにかひなき凡夫なれども御経を持ちまいらせ候分斉は当世には日本第一の大人なりと申すなり。

問うて云く慢煩悩は七慢・九慢・八慢あり汝が大慢は仏教に明すところの大慢にも百千万億倍すぐれたり、彼の徳光論師は弥勒菩薩を礼せず・大慢婆羅門は四聖を座とせり、大天は凡夫にして阿羅漢となのる・無垢論師が五天第一といゐし、此等は皆阿鼻に堕ちぬ無間の罪人なり汝いかでか一閻浮提第一の智人となのれる地獄に堕ちざるべしやおそろしおそろし、答えて云く汝は七慢・九慢・八慢等をばしれりや大覚世尊は三界第一となのらせ給う一切の外道が云く只今天に罰せらるべし大地われて入りなんと、日本国の七寺・三百余人が云く最澄法師は大天が蘇生か鉄腹が再誕か等云云、而りといえども天も罰せずかへて左右を守護し地もわれず金剛のごとし、伝教大師は叡山を立て一切衆生の眼目となる結句七大寺は落ちて弟子となり諸国は檀那となる、されば現に勝れたるを勝れたりという事は慢ににて大功徳なりけるか、伝教大師云く「天台法華宗の諸宗に勝れたるは所依の経に拠るが故に自讃毀他ならず」等云云法華経第七に云く「衆山の中に須弥山これ第一なり此の法華経も亦復かくの如し諸経の中に於て最もこれ其の上なり」等云云、此の経文は已説の華厳・般若・大日経等、今説の無量義経、当説の涅槃経等の五千・七千・月支・竜宮・四王天・忉利天・日月の中の一切経・尽十方界の諸経は土山・黒山・小鉄囲山・大鉄囲


山のごとし日本国にわたらせ給える法華経は須弥山のごとし。

又云く「能く是の経典を受持すること有らん者も、亦復是くの如し、一切衆生の中に於て亦これ第一なり」等云云、此の経文をもつて案ずるに華厳経を持てる普賢菩薩・解脱月菩薩等・竜樹菩薩・馬鳴菩薩・法蔵大師・清涼国師・則天皇后・審祥大徳・良弁僧正・聖武天皇・深密般若経を持てる勝義生菩薩・須菩提尊者・嘉祥大師・玄奘三蔵・太宗・高宗・観勒・道昭・孝徳天皇、真言宗の大日経を持てる金剛薩埵・竜猛菩薩・竜智菩薩・印生王・善無畏三蔵・金剛智三蔵・不空三蔵・玄宗・代宗・慧果・弘法大師・慈覚大師、涅槃経を持てる迦葉童子菩薩・五十二類・曇無懺三蔵、光宅寺の法雲南三北七の十師等よりも末代悪世の凡夫の一戒も持たず一闡提のごとくに人には思はれたれども、経文のごとく已今当にすぐれて法華経より外は仏になる道なしと強盛に信じて而も一分の解なからん人人は、彼等の大聖には百千万億倍のまさりなりと申す経文なり、彼の人人は或は彼の経経に且く人を入れて法華経へうつさんがためなる人もあり、或は彼の経に著をなして法華経へ入らぬ人もあり、或は彼の経経に留逗のみならず彼の経経を深く執するゆへに法華経を彼の経に劣るという人もあり、されば今法華経の行者は心うべし、譬えば「一切の川流江河の諸水の中に海これ第一なるが如く法華経を持つ者も亦復是くの如し、又衆星の中に月天子最もこれ第一なるが如く法華経を持つ者も亦復是くの如し」等と御心えあるべし、当世日本国の智人等は衆星のごとし日蓮は満月のごとし。

問うて云く古へかくのごとくいえる人ありや、答えて云く伝教大師の云く「当に知るべし他宗所依の経は未だ最為第一ならず其の能く経を持つ者も亦未だ第一ならず天台法華宗は所持の経最為第一なるが故に能く法華を持つ者も亦衆生の中に第一なり、已に仏説に拠る豈自歎ならんや」等云云、夫れ麒麟の尾につけるだにの一日に千里を飛ぶといゐ、転王に随える劣夫の須臾に四天下をめぐるというをば難ずべしや疑うべしや、豈自歎哉の釈