Nichiren・Ikeda

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日蓮大聖人・池田大作

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御義口伝巻上  (10/43) 疵を蔵くし徳を揚ぐるを以て本とせり
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非ざるなり、正直捨方便但説無上道の行者なれば見濁に非るなり、所詮南無妙法蓮華経を境として起る所の五濁なれば、日本国の一切衆生五濁の正意なり、されば文句四に云く「相とは四濁増劇にして此の時に聚在せり瞋恚増劇にして刀兵起り貪欲増劇にして飢餓起り愚癡増劇にして疾疫起り三災起るが故に煩悩倍隆んに諸見転た熾んなり」経に如来現在猶多怨嫉況滅度後と云う是なり、法華経不信の者を以て五濁障重の者とす経に云く「以五濁悪世但楽著諸欲如是等衆生終不求仏道」云云、仏道とは法華経の別名なり天台云く「仏道とは別して今経を指す」と。

第五 比丘比丘尼有懐増上慢優婆塞我慢優婆夷不信の事

文句の四に云く上慢と我慢と不信と四衆通じて有り、但し出家の二衆は多く道を修し禅を得て謬て聖果と謂い偏に上慢を起す、在俗は矜高にして多く我慢を起す女人は智浅くして多く邪僻を生ず自ら其の過を見ずとは三失心を覆う、疵を蔵くし徳を揚げて自ら省ること能わざるは是れ無慙の人なり、若し自ら過を見れば是れ有羞の僧なり記の四に云く疵を蔵くす等とは三失を釈するなり疵を蔵くし徳を揚ぐは上慢を釈す、自ら省ること能わざるは我慢を釈す、無慙の人とは不信を釈す、若し自ら過を見るは此の三失無し未だ果を証せずと雖も且らく有羞と名く。

御義口伝に云く此本末の釈の意は五千の上慢を釈するなり委くは本末を見る可きなり、比丘比丘尼の二人は出家なり共に増上慢と名く疵を蔵くし徳を揚ぐるを以て本とせり、優婆塞は男なり我慢を以て本とせり優婆夷は女人なり無慙を以て本とせり、此の四衆は今日本国に盛んなり経には其数有五千と有れども日本国に四十九億九万四千八百廿八人と見えたり、在世には五千人・仏の座を立てり今末法にては日本国の一切衆生悉く日蓮が所座を立てり、比丘比丘尼増上慢とは道隆良観等に非ずや又鎌倉中の比丘尼等に非ずや、優婆塞とは最明寺優婆夷とは上下の女人に非ずや敢て我が過を知る可からざるなり、今日蓮等の類いを誹謗して悪名を立つ豈不


自見其過の者に非ずや大謗法の罪人なり法華の御座を立つ事疑無き者なり、然りと雖も日蓮に値う事是併ら礼仏而退の義なり此の礼仏而退は軽賤の義なり全く信解の礼退に非ざるなり此等の衆は於戒有欠漏の者なり、文句の四に云く「於戒有欠漏とは律義失有るをば欠と名け定共道共失有るをば漏と名く」と此の五千の上慢とは我等所具の五住の煩悩なり、今法華経に値い奉る時慢即法界と開きて礼仏而退するを仏威徳故去と云うなり、仏とは我等所具の仏界なり威徳とは南無妙法蓮華経なり、故去とは而去不去の意なり普賢品の作礼而去之を思う可きなり、又云く五千の退座と云う事法華の意は不退座なり其の故は諸法実相略開三顕一の開悟なり、さて其の時は我慢増上慢とは慢即法界と開きて本有の慢機なり、其数有五千とは我等が五住の煩悩なり若し又五住の煩悩無しと云うは法華の意を失いたり、五住の煩悩有り乍ら本有常住ぞと云う時其数有五千と説くなり、断惑に取り合わず其の儘本有妙法の五住と見れば不自見其過と云うなり、さて於戒有欠漏とは小乗権教の対治衆病の戒法にては無きなり是名持戒の妙法なり故に欠漏の当体其の儘是名持戒の体なり、然るに欠漏を其の儘本有と談ずる故に護惜其瑕疵とは説くなり、元より一乗の妙戒なれば一塵含法界一念遍十方する故に是小智已出と云うなり、糟糠とは塵塵法法・本覚の三身なり故にすくなき福徳の当体も本覚無作の覚体なり、不堪受是法とは略開の諸法実相の法体を聞きて其の儘開悟するなりさて身子尊者鈍根のために分別解説したまえと請う広開三の法門をば不堪受是法と説く、さて法華の実義に帰りて見れば妙法の法体は更に能受所受を忘るるなり不思議の妙法なり、本法の重を悟りて見る故に此衆無枝葉と云うなり、かかる内証は純一実相・実相外更無別法なれば唯有諸貞実なり所詮貞実とは色心を妙法と開く事なり、今日蓮等の類い南無妙法蓮華経と唱え奉る処を唯有諸貞実と説くなり、諸とは諸法実相の仏なり諸は十界なり貞実は十界の色心を妙法と云うなり今経に限る故に唯と云うなり、五千の上慢の外全く法華経之れ無し五千の慢人とは我等が五大なり五大即妙法蓮華経な


り、五千の上慢は元品の無明なり故に礼仏而退なり此れは九識八識六識と下る分なり流転門の談道なり、仏威徳故去とは還滅門なり然らば威徳とは南無妙法蓮華経なり本迷本悟の全体なり能く能く之を案ず可し云云。 

第六 如我等無異如我昔所願の事

疏に云く因を挙げて信を勧むと。

御義口伝に云く我とは釈尊・我実成仏久遠の仏なり此の本門の釈尊は我等衆生の事なり、如我の我は十如是の末の七如是なり九界の衆生は始の三如是なり我等衆生は親なり仏は子なり父子一体にして本末究竟等なり、此の我等を寿量品に無作の三身と説きたるなり、今日蓮等の類い南無妙法蓮華経と唱うる者是なり、爰を以て之を思うに釈尊の惣別の二願とは我等衆生の為に立てたもう処の願なり、此の故に南無妙法蓮華経と唱え奉りて日本国の一切衆生を我が成仏せしめんと云う所の願併ら如我昔所願なり、終に引導して己身と和合するを今者已満足と意得可きなり、此の今者已満足の已の字すでにと読むなり何の処を指して已にとは説けるや、凡そ所釈の心は諸法実相の文を指して已にとは云えり、爾りと雖も当家の立義としては南無妙法蓮華経を指して今者已満足と説かれたりと意得可きなり、されば此の如我等無異の文肝要なり、如我昔所願は本因妙如我等無異は本果妙なり妙覚の釈尊は我等が血肉なり因果の功徳骨髄に非ずや、釈には挙因勧信と挙因は即ち本果なり、今日蓮が唱うる所の南無妙法蓮華経は末法一万年の衆生まで成仏せしむるなり豈今者已満足に非ずや、已とは建長五年四月廿八日に初めて唱え出す処の題目を指して已と意得可きなり、妙法の大良薬を以て一切衆生の無明の大病を治せん事疑い無きなり此れを思い遣る時んば満足なり満足とは成仏と云う事なり、釈に云く「円は円融円満に名け頓は頓極頓足に名く」と之を思う可し云云。

第七 於諸菩薩中正直捨方便の事

文句の四に云く於諸菩薩中の下の三句は正しく実を顕すなり、五乗は是れ曲にして直に非ず通別は偏傍にして正に非ず今皆彼の偏曲を捨てて但正直の一道を説くなりと。