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日蓮大聖人・池田大作

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御講聞書  (14/41) 今日蓮等の類い・南無妙法蓮華経と唱え奉る者…
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の題目を持ち奉る者は豈多有田宅の長者に非ずや、今末法に入つて日蓮等の類・多有田宅の本主として如説修行の行者なり云云。

一等一大車の事

仰に云く此の大車とは直至道場の大白牛車にして其の疾きこと風の如し、所詮南無妙法蓮華経を等一大車と云うなり、等と云うは諸法実相なり、一とは唯有一乗法なり、大とは大乗なり、車とは一念三千なり、仍つて釈には等の字を子等車等と釈せり、子等の等と如我等無異の等とは同なり、車等の等は平等大慧の等なり、今日蓮等の類い・南無妙法蓮華経と唱え奉る者は男女・貴賤共に無上宝聚・不求自得の金言を持つ者なり、智者愚者をきらわず共に即身成仏なり云云、疏の五に云く一に等子・二に等車・子等しきを以ての故に則ち心等し、一切衆生等しく仏性有るに譬う、仏性同じきが故に等しく是れ子なり、第二に車等とは法等しきを以ての故に仏法に非ざること無し、一切法皆摩訶衍なるに譬う、摩訶衍同じきが故に等しく是れ大車なり、而して各賜と言うは各々本習に随う、四諦六度無量の諸法・各各旧習に於て真実を開示す、旧習同じからず故に各と言う、皆摩訶衍なり故に大車と言う云云。

一其車高広の事

仰に云く此の車は南無妙法蓮華経なり、即ち我等衆生の体なり、法華一部の総体なり、高広とは仏知見なり、されば此の車を方便品の時は諸仏智慧と説き其の智慧を甚深無量と称歎せり、歎の言には甚深無量とほめたり、爰には其車と説いて高広とほめたり、されば文句の五に云く其車高広の下は如来の知見深遠なるに譬う、横に法界の辺際に周く・堅に三諦の源底に徹す故に高広と言うなりと、所詮此の如来とは一切衆生の事なり既に諸法実相の仏なるが故なり、知見とは色心の二法なり知は心法・見は色法なり、色心二法を高広と云えり、高広即本迹二門なり此れ即ち南無妙法蓮華経なり云云。

一是朽故宅属于一人の事

仰に云く此の文をば文句の五に云く出火の由を明す文、此の宅とは三界の火宅な


り、火と云うは煩悩の火なり、此の火と宅とをば属于一人とて釈迦一仏の御利益なり、弥陀・薬師・大日等の諸仏の救護に非ず、教主釈尊一仏の御化導なり、唯我一人・能為救護とは是なり、此の属于一人の文を重ねて、五巻提婆品に説いて云く観三千大千世界乃至無有如芥子許非是菩薩捨身命処為衆生故文、妙楽大師此の属于一人の経文を釈する時・記の五に云く、咸く長者に帰す・一色一香・一切皆然なりと判ぜり、既に咸帰長者と釈して、法界に有りとある一切衆生の受くる苦悩をば、釈尊一人の長者に帰すと釈せり、一色一香一切皆然なりとは、法界の千草万木・飛華落葉の為体、是れ皆無常遷滅の質と見て仏道に帰するも、属于一人の利益なり、此の利益の本源は南無妙法蓮華経の内証に引入れしめんが為なり、所詮末法に入つて属于一人の利益は日蓮が身に当りたり、日本国の一切衆生の受くる苦悩は、悉く日蓮一人が属于一人なり、教主釈尊は唯我一人・能為救護、日蓮は一人能為救護に云云、文句の五に云く、是朽故宅属于一人の下、第二に一偈有り、失火の由を明す、三界は是れ仏の化応の処発心已来誓つて度脱せんと願う、故に属于一人と云うと、此の釈に発心已来誓願度脱の文、豈日蓮の身に非ずや云云。

一諸鬼神等揚声大叫の事

仰に云く諸鬼神等と云うは親類部類等を鬼神と云うなり、我等衆生死したる時・妻子眷属あつまりて悲歎するを揚声大叫とは云うなり、文句の五に云く諸鬼神等の下・第四に一行半は被焼の相を明す、或は云く親属を鬼神と為し・哭泣を揚声と為すと。

一乗此宝乗直至道場の事

仰に云く此の経文は我等衆生の煩悩即菩提・生死即涅槃を明せり、其の故は文句の五に云く、此の因易ること無きが故に直至と云う、此の釈の心は爾前の心は煩悩を捨てて生死を厭うて別に菩提涅槃を求めたり、法華経の意は煩悩即菩提・生死即涅槃と云えり、直と即とは同じ事なり、所詮日蓮等の類い南無妙法蓮華経と唱え奉る者の、住処即寂光土と心得可きなり、然れば此の実乗に乗じて、忽ちに妙覚極果


の位に至るを直至道場とは云うなり、直至と云う文の意は、四十二位を爰にて極めたり、此の直の一字は、地獄即寂光・餓鬼即寂光土なり、法華経の行者の住処、山谷曠野なりとも、直至道場なり、道場とは究竟の寂光なり、仍つて乗此宝乗の上の乗は法華の行者、此の品の意にては中根の四大声聞なり、惣じて一切衆生の事なり、今末法に入つては日蓮等の類いなり、宝乗の乗の字は大白牛車の妙法蓮華経なり、然れば上の乗は能乗・下の乗は所乗なり、宝乗は蓮華なり、釈迦・多宝等の諸仏も、此の宝乗に乗じ給えり、此れを提婆品に重ねて説く時・若在仏前蓮華化生と云云、釈迦・多宝の二仏は我等が己心なり、此の己心の法華経に値い奉つて成仏するを顕わさんとして釈迦・多宝・二仏・並座して乗此宝乗・直至道場を顕わし給えり、此の乗とは車なり、車は蓮華なり、此の蓮華の上の妙法は、我等が生死の二法・二仏なり、直至の至は此れより彼へいたるの至るには非ず住処即寂光と云うを至とは云うなり、此の宝乗の宝は七宝の大車なり、七宝即ち頭上の七穴・七穴即ち末法の要法・南無妙法蓮華経是なり、此の題目の五字、我等衆生の為には、三途の河にては船となり、紅蓮地獄にては寒さをのぞき、焦熱地獄にては凉風となり、死出の山にては蓮華となり、渇せる時は水となり・飢えたる時は食となり、裸かなる時は衣となり、妻となり、子となり、眷属となり、家となり、無窮の応用を施して一切衆生を利益し給うなり、直至道場とは是なり、仍つて此の身を取りも直さず寂光土に居るを直至道場とは云うなり、直の字心を留めて之を案ず可し云云。

一若人不信毀謗此経則断一切世間仏種の事

仰に云く此の経文の意は小善成仏を信ぜずんば一切世間の仏種を断ずと云う事なり、文句の五に云く、今経に小善成仏を明す、此れは縁因を取つて仏種と為す、若し小善の成仏を信ぜずんば、即と一切世間の仏種を断ずるなり文、爾前経の心は小善成仏を明さざるなり、法華経の意は一華・一香の小善も法華経に帰すれば大善となる、縦い法界に充満せる大善なりとも此の経に値わずんば善根とは