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日蓮大聖人・池田大作

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弥三郎殿御返事  (2/3) 若し恩を知り心有る人人は二当らん杖には一は…
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八万なんどす、打ち見て候所はあら貴や貴やと見へ候へども・法華経を以て見進らせ候へば中中・日日に十悪を造る悪人よりは過重きは善人なり、悪人は何れの仏にも・よりまいらせ候はねば思い替る辺もなし、若し又善人とも成らば・法華経に付き進らする事もや有りなん、日本国の人人は何にも阿弥陀仏より釈迦仏・念仏よりも法華経を重くしたしく心よせに思い進らせぬる事難かるべし、されば此の人人は善人に似て悪人なり、悪人の中には一閻浮提第一の大謗法の者・大闡提の人なり、釈迦仏此の人をば法華経の二の巻に「其の人命終して阿鼻獄に入らん」と定めさせ給へり、されば今の日本国の諸僧等は提婆達多・瞿伽梨尊者にも過ぎたる大悪人なり、又在家の人人は此等を貴み供養し給う故に此の国眼前に無間地獄と変じて諸人現身に大飢渇・大疫病・先代になき大苦を受くる上他国より責めらるべし、此れは偏に梵天・帝釈・日月等の御はからひなり、かかる事をば日本国には但日蓮一人計り知つて始は云うべきか云うまじきかとうらおもひけれども・さりとては何にすべき、一切衆生の父母たる上・仏の仰せを背くべきか、我が身こそ何様にも・ならめと思いて云い出せしかば二十余年・所をおはれ弟子等を殺され・我が身も疵を蒙り二度まで流され結句は頸切られんとす、是れ偏に日本国の一切衆生の大苦にあはんを兼て知りて歎き候なり、されば心あらん人人は我等が為にと思食すべし、若し恩を知り心有る人人は二当らん杖には一は替わるべき事ぞかし、さこそ無からめ還つて怨をなしなんど・せらるる事は心得ず候、又在家の人人の能くも聞きほどかずして或は所を追ひ或は弟子等を怨まるる心えぬさよ、設い知らずとも誤りて現の親を敵ぞと思ひたがへて詈り或は打ち殺したらんは何に科を免るべき、此の人人は我があらぎをば知らずして日蓮があらぎの様に思へり、譬えば物ねたみする女の眼を瞋らかして・とわりをにらむれば己が気色のうとましきをば知らずして還つてとわりの眼おそろしと云うが如し、此等の事は偏に国主の御尋ねなき故なり、又何なれば御尋ねなきぞと申すに・此の国の人人余り科多くして一定今生には他国に責められ後生には無間地獄に堕つべき悪業


の定まりたるが故なりと、経文歴歴と候いしかば信じ進らせて候、此の事は各各設い我等が如くなる云うにかひなき者共を責めおどし或は所を追わせ給い候とも・よも終には只は候はじ、此の御房の御心をば設い天照太神・正八幡もよも随へさせ給ひ候はじ、まして凡夫をや、されば度度の大事にもおくする心なく弥よ強盛に御坐すと承り候と加様のすぢに申し給うべし。

さて其の法師物申さば取り返して・さて申しつる事は僻事かと返して釈迦仏は親なり・師なり・主なりと申す文・法華経には候かと問うて・有りと申さば・さて阿弥陀仏は御房の親・主・師と申す経文は候かと責めて・無しと云わんずるか又有りと云はんずるか・若しさる経文有りと申さば御房の父は二人かと責め給へ、又無しといはば・さては御房は親をば捨てて何に他人を・もてなすぞと責め給へ、其の上法華経は他経には似させ給はねばこそとて四十余年等の文を引かるべし、即往安楽の文にかからば・さて此れには先ずつまり給へる事は承伏かと責めて・それもとて又申すべし、構へて構へて所領を惜み妻子を顧りみ又人を憑みて・あやぶむ事無かれ但偏に思い切るべし、今年の世間を鏡とせよ若干の人の死ぬるに今まで生きて有りつるは此の事にあはん為なりけり、此れこそ宇治川を渡せし所よ・是こそ勢多を渡せし所よ・名を揚るか名をくだすかなり、人身は受け難く法華経は信じ難しとは是なり、釈迦・多宝・十方の仏・来集して我が身に入りかはり我を助け給へと観念せさせ給うべし、地頭のもとに召さるる事あらば先は此の趣を能く能く申さるべく候、恐恐謹言。

  建治三年丁丑八月四日                日蓮花押

   弥三郎殿御返事


新田殿御書

使ひ御志限り無き者か、経は法華経・顕密第一の大法なり、仏は釈迦仏・諸仏第一の上仏なり、行者は法華経の行者に相似たり、三事既に相応せり檀那の一願必ず成就せんか、恐恐謹言。

 五月二十九日                     日蓮在御判

  新田殿御返事

     並に女房の御方

実相寺御書

                    建治四年正月十六日 五十七歳御作

新春の御札の中に云く駿河の国・実相寺の住侶尾張阿闍梨と申す者・玄義四の巻に涅槃経を引いて、小乗を以て大乗を破し大乗を以て小乗を破するは、盲目の因なりと釈せる由申し候なるは実にて候やらん不審に候。

反詰して云く小乗を以て大乗を破し大乗を以て小乗を破する者・盲目とならば弘法大師・慈覚大師・智証大師等は・されば盲目となり給いたりけるか、善無畏・金剛智・不空等は盲目と成り給うとの給うかとつめよ、玄義の四に云く「問う法華に麤を開して麤皆妙に入る涅槃何の意ぞ更に次第の五行を明すや、答う法華は仏世の人の為に権を破して実に入れ復麤有ること無く教意整足せり、涅槃は末代の凡夫の見思の病重く一実を定執して方便を誹