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日蓮大聖人・池田大作

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聖愚問答抄 上  (6/13) 小野の小町・衣通姫が花の姿も無常の風に散り…
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風・常楽我浄を奏し前には碧水湯湯として岸うつ波・四徳波羅蜜を響かす深谷に開敷せる花も中道実相の色を顕し広野に綻ぶる梅も界如三千の薫を添ふ言語道断・心行所滅せり謂つ可し商山の四皓の所居とも又知らず古仏経行の迹なるか、景雲朝に立ち霊光夕に現ず嗚呼心を以て計るべからず詞を以て宣ぶべからず、予此の砌に沈吟とさまよひ彷徨とたちもとをり徙倚とたたずむ、此処に忽然として一の聖人坐す其の行儀を拝すれば法華読誦の声深く心肝に染みて閑窻の戸ほそを伺へば玄義の牀に臂をくだす、爰に聖人予が求法の志を酌知て詞を和げ予に問うて云く汝なにに依つて此の深山の窟に至れるや、予答えて云く生をかろくして法をおもくする者なり、聖人問て云く其の行法如何、予答えて云く本より我は俗塵に交りて未だ出離を弁えず、適善知識に値て始には律・次には念仏・真言・並に禅・此等を聞くといへども未だ真偽を弁えず、聖人云く汝が詞を聞くに実に以て然なり身をかろくして法をおもくするは先聖の教へ予が存ずるところなり、抑上は非想の雲の上・下は那落の底までも生を受けて死をまぬかるる者やはある、然れば外典のいやしきをしえにも朝に紅顔有つて世路に誇るとも夕には白骨と為つて郊原に朽ちぬと云へり、雲上に交つて雲のびんづら・あざやかに廻雪たもと・を・ひるがへすとも其の楽みをおもへば夢の中の夢なり、山のふもと蓬がもとはつゐの栖なり玉の台・錦の帳も後世の道にはなにかせん、小野の小町・衣通姫が花の姿も無常の風に散り・攀噲・張良が武芸に達せしも獄卒の杖をかなしむ、されば心ありし古人の云くあはれなり鳥べの山の夕煙をくる人とて・とまるべきかは、末のつゆ本のしづくや世の中の・をくれさきたつためしなるらん、先亡後滅の理り始めて驚くべきにあらず願ふても願ふべきは仏道・求めても求むべきは経教なり、抑汝が云うところの法門をきけば或は小乗・或は大乗・位の高下は且らく之を置く還つて悪道の業たるべし。

爰に愚人驚いて云く如来一代の聖教はいづれも衆生を利せんが為なり、始め七処・八会の筵より終り跋提河の儀式まで何れか釈尊の所説ならざる設ひ一分の勝劣をば判ずとも何ぞ悪道の因と云べきや、聖人云く如来一代の


聖教に権有り実有り大有り小有り又顕密二道相分ち其の品一に非ず、須く其の大途を示して汝が迷を悟らしめん、夫れ三界の教主釈尊は十九歳にして伽耶城を出て檀特山に籠りて難行苦行し三十成道の刻に三惑頓に破し無明の大夜爰に明しかば須く本願に任せて一乗妙法蓮華経を宣ぶべしといへども機縁万差にして其の機仏乗に堪えず、然れば四十余年に所被の機縁を調へて後八箇年に至つて出世の本懐たる妙法蓮華経を説き給へり、然れば仏の御年七十二歳にして序分無量義経に説き定めて云く「我先きに道場菩提樹の下に端坐すること六年にして阿耨多羅三藐三菩提を成ずることを得たり、仏眼を以て一切の諸法を観ずるに宣説す可からず、所以は何ん諸の衆生の性慾不同なるを知れり性慾不同なれば種種に法を説く種種に法を説くこと方便の力を以てす四十余年には未だ真実を顕わさず」文、此の文の意は仏の御年三十にして寂滅道場菩提樹の下に坐して仏眼を以て一切衆生の心根を御覧ずるに衆生成仏の直道たる法華経をば説くべからず、是を以て空拳を挙げて嬰児をすかすが如く様様のたばかりを以て四十余年が間はいまだ真実を顕わさずと年紀をさして青天に日輪の出で暗夜に満月のかかるが如く説き定めさせ給へり、此の文を見て何ぞ同じ信心を以て仏の虚事と説かるる法華已前の権教に執著して、めずらしからぬ三界の故宅に帰るべきや、されば法華経の一の巻方便品に云く「正直に方便を捨て但無上道を説く」文、此の文の意は前四十二年の経経・汝が語るところの念仏・真言・禅・律を正直に捨てよとなり、此の文明白なる上重ねていましめて第二の巻譬喩品に云く「但楽つて大乗経典を受持し乃至余経の一偈をも受けざれ」文、此の文の意は年紀かれこれ煩はし所詮法華経より自余の経をば一偈をも受くべからずとなり、然るに八宗の異義蘭菊に道俗形ちを異にすれども一同に法華経をば崇むる由を云う、されば此等の文をばいかが弁へたる正直に捨てよと云つて余経の一偈をも禁むるに或は念仏・或は真言・或は禅・或は律・是れ余経にあらずや、今此の妙法蓮華経とは諸仏出世の本意・衆生成仏の直道なり、されば釈尊は付属を宣べ多宝は証明を遂げ諸仏は舌相を梵天に付けて


皆是真実と宣べ給へり、此の経は一字も諸仏の本懐・一点も多生の助なり一言一語も虚妄あるべからず此の経の禁を用いざる者は諸仏の舌をきり賢聖をあざむく人に非ずや其の罪実に怖るべし、されば二の巻に云く「若し人信ぜずして此の経を毀謗せば則ち一切世間の仏種を断ず」文、此の文の意は若人此経の一偈一句をも背かん人は過去・現在・未来・三世十方の仏を殺さん罪と定む、経教の鏡をもつて当世にあてみるに法華経をそむかぬ人は実に以て有りがたし、事の心を案ずるに不信の人・尚無間を免れず況や念仏の祖師・法然上人は法華経をもつて念仏に対して抛てよと云云、五千七千の経教に何れの処にか法華経を抛てよと云う文ありや、三昧発得の行者・生身の弥陀仏とあがむる善導和尚・五種の雑行を立てて法華経をば千中無一とて千人持つとも一人も仏になるべからずと立てたり、経文には若有聞法者無一不成仏と談じて此の経を聞けば十界の依正・皆仏道を成ずと見えたり、爰を以て五逆の調達は天王如来の記莂に予り非器五障の竜女も南方に頓覚成道を唱ふ況や復蛣蜣の六即を立てて機を漏らす事なし、善導の言と法華経の文と実に以て天地雲泥せり何れに付くべきや就中其の道理を思うに諸仏衆経の怨敵・聖僧衆人の讎敵なり、経文の如くならば争か無間を免るべきや。

爰に愚人色を作して云く汝賤き身を以て恣に莠言を吐く悟つて言うか迷つて言うか理非弁え難し、忝なくも善導和尚は弥陀善逝の応化・或は勢至菩薩の化身と云へり、法然上人も亦然なり善導の後身といへり、上古の先達たる上・行徳秀発し解了・底を極めたり何ぞ悪道に堕ち給うと云うや、聖人云く汝が言然なり予も仰いで信を取ること此くの如し但し仏法は強ちに人の貴賤には依るべからず只経文を先きとすべし身の賤をもつて其の法を軽んずる事なかれ、有人楽生悪死・有人楽死悪生の十二字を唱へし毘摩大国の狐は帝釈の師と崇められ諸行無常等の十六字を談ぜし鬼神は雪山童子に貴まる是れ必ず狐と鬼神との貴きに非ず只法を重んずる故なり、されば我等が慈父・教主釈尊・雙林最後の御遺言・涅槃経の第六には依法不依人とて普賢・文殊等の等覚已還の大薩埵・法門