Nichiren・Ikeda

Search & Study

日蓮大聖人・池田大作

検索 & 研究 ver.9

春初御消息 
1585

春初御消息

ははき殿かきて候事・よろこびいりて候。

春の初の御悦び木に花のさくがごとく・山に草の生出ずるがごとしと我も人も悦び入つて候、さては御送り物の日記・八木一俵・白塩一俵・十字三十枚・いも一俵給び候い畢んぬ。

深山の中に白雪・三日の間に庭は一丈につもり・谷はみねとなり・みねは天にはしかけたり、鳥鹿は庵室に入り樵牧は山にさしいらず、衣はうすし・食はたえたり・夜はかんく鳥にことならず、昼は里へいでんとおもふ心ひまなし、すでに読経のこえも・たえ観念の心もうすし、今生退転して未来三五を経ん事をなげき候いつるところに・此の御とぶらひに命いきて又もや見参に入り候はんずらんと・うれしく候。

過去の仏は凡夫にて・おはしまし候いし時・五濁乱漫の世にかかる飢えたる法華経の行者をやしなひて・仏にはならせ給うぞとみえて候へば・法華経まことならば此の功徳によりて過去の慈父は成仏疑なし。

故五郎殿も今は霊山浄土にまいりあはせ給いて・故殿に御かうべをなでられさせ給うべしと・おもひやり候へば涙かきあへられず、恐恐謹言。

  正月二十日                    日蓮花押

   上野殿御返事

   申す事恐れ入つて候、返返ははき殿一一によみきかせまいらせ候へ。


法華証明抄

                     法華経の行者 日蓮花押

末代悪世に法華経を経のごとく信じまいらせ候者をば法華経の御鏡にはいかんがうかべさせ給うと拝見つかまつり候へば、過去に十万億の仏を供養せる人なりと・たしかに釈迦仏の金口の御口より出でさせ給いて候を・一仏なれば末代の凡夫はうたがいや・せんずらんとて、此より東方にはるかの国をすぎさせ給いておはします宝浄世界の多宝仏わざわざと行幸ならせ給いて釈迦仏にをり向いまいらせて妙法華経皆是真実と証明せさせ給い候いき、此の上はなにの不審か残るべき・なれども・なをなを末代の凡夫は・をぼつかなしと・をぼしめしや有りけん、十方の諸仏を召しあつめさせ給いて広長舌相と申して無量劫より・このかた永くそらごとなきひろくながく大なる御舌を須弥山のごとく虚空に立てならべ給いし事は・をびただしかりし事なり、かう候へば末代の凡夫の身として法華経の一字・二字を信じまいらせ候へば十方の仏の御舌を持つ物ぞかし、いかなる過去の宿習にて・かかる身とは生るらむと悦びまいらせ候・上の経文は過去に十万億の仏にあいまいらせて供養をなしまいらせて候いける者が・法華経計りをば用いまいらせず候いけれども・仏くやうの功徳莫大なりければ・謗法の罪に依りて貧賤の身とは生れて候へども・又此の経を信ずる人となれりと見へて候、此れをば天台の御釈に云く「人の地に倒れて還つて地より起つが如し」等云云、地にたうれたる人は・かへりて地よりをく、法華経謗法の人は三悪並びに人天の地には・たうれ候へども・かへりて法華経の御手にかかりて仏になると・ことわられて候。

しかるにこの上野の七郎次郎は末代の凡夫・武士の家に生れて悪人とは申すべけれども心は善人なり、其の故


は日蓮が法門をば上一人より下万民まで信じ給はざる上たまたま信ずる人あれば或は所領・或は田畠等に・わづらひをなし結句は命に及ぶ人人もあり信じがたき上・はは故上野は信じまいらせ候いぬ、又此の者敵子となりて人もすすめぬに心中より信じまいらせて・上下万人にあるいは・いさめ或はをどし候いつるに・ついに捨つる心なくて候へば・すでに仏になるべしと見へ候へば・天魔・外道が病をつけてをどさんと心み候か、命はかぎりある事なり・すこしも・をどろく事なかれ、又鬼神めらめ此の人をなやますは剣をさかさまに・のむか又大火をいだくか、三世十方の仏の大怨敵となるか、あなかしこ・あなかしこ、此の人のやまいを忽になをして・かへりてまほりとなりて鬼道の大苦をぬくべきか、其の義なくして現在には頭破七分の科に行われ・後生には大無間地獄に堕つべきか、永くとどめよ・とどめよ、日蓮が言をいやしみて後悔あるべし・後悔あるべし。

  弘安五年二月廿八日

   下伯耆房

莚三枚御書

莚三枚・生和布一籠・給い了んぬ。

抑三月一日より四日にいたるまでの御あそびに心なぐさみて・やせやまいもなをり・虎とるばかりをぼへ候上・此の御わかめ給びて師子にのりぬべくをぼへ候。

さては財はところにより人によつてかわりて候、此の身延の山には石は多けれども餅なし、こけは多けれどもうちしく物候はず、木の皮をはいでしき物とす・むしろいかでか財とならざるべき。