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日蓮大聖人・池田大作

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治病大小権実違目  (2/4) 法華経に又二経あり所謂迹門と本門となり本迹…
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の小乗の者等・小乗を本として或は大乗を背き或は心には背かざれども大乗の国に肩を並べなんどする其の国其の人に諸病起る、小乗等をもつて此れを治すれば諸病は増すとも治せらるる事なし、諸大乗経の行者をもつて此れを治すれば則ち平愈す、又華厳経・深密経・般若経・大日経等の権大乗の人人・各各劣謂勝見を起して我が宗は或は法華経と斉等或は勝れたりなんど申す人多く出来し或は国主等此れを用いぬれば此れによつて三毒・八万四千の病起る、返つて自の依経をもつて治すれども・いよいよ倍増す、設い法華経をもつて行うとも験なし経は勝れたれども行者・僻見の者なる故なり。

法華経に又二経あり所謂迹門と本門となり本迹の相違は水火天地の違目なり、例せば爾前と法華経との違目よりも猶相違あり爾前と迹門とは相違ありといへども相似の辺も有りぬべし、所説に八教あり爾前の円と迹門の円は相似せり爾前の仏と迹門の仏は劣応・勝応・報身・法身異れども始成の辺は同じきぞかし、今本門と迹門とは教主已に久始のかわりめ百歳のをきなと一歳の幼子のごとし、弟子又水火なり土の先後いうばかりなし、而るを本迹を混合すれば水火を弁えざる者なり、而るを仏は分明に説き分け給いたれども仏の御入滅より今に二千余年が間三国並びに一閻浮提の内に分明に分けたる人なし、但漢土の天台・日本の伝教・此の二人計りこそ粗分け給いて候へども本門と迹門との大事に円戒いまだ分明ならず、詮ずる処は天台と伝教とは内には鑒み給うといへども一には時来らず二には機なし三には譲られ給はざる故なり、今末法に入りぬ地涌出現して弘通有るべき事なり、今末法に入つて本門のひろまらせ給うべきには小乗・権大乗・迹門の人人・設い科なくとも彼れ彼れの法にては験有るべからず、譬へば春の薬は秋の薬とならず設いなれども春夏のごとくならず何に況や彼の小乗・権大乗・法華経の迹門の人人或は大小権実に迷える上・上代の国主彼れ彼れの経経に付きて寺を立て田畠を寄進せる故に彼の法を下せば申し延べがたき上・依怙すでに失るかの故に大瞋恚を起して或は実経を謗じ或は行者をあだむ国主も


又一には多人につき或は上代の国主の崇重の法をあらため難き故・或は自身の愚癡の故・或は実教の行者を賤しむゆへ等の故彼の訴人等の語を・をさめて実教の行者をあだめば実教の守護神の梵釈・日月・四天等・其の国を罰する故に先代未聞の三災・七難起るべし、所謂去今年・去ぬる正嘉等の疫病等なり。

疑つて云く汝が申すがごとくならば此の国法華経の行者をあだむ故に善神此の国を治罰する等ならば諸人の疫病なるべし何ぞ汝が弟子等又やみ死ぬるや、答えて云く汝が不審最も其の謂有るか但し一方を知りて一方を知らざるか、善と悪とは無始よりの左右の法なり権教並びに諸宗の心は善悪は等覚に限る若し爾ば等覚までは互に失有るべし、法華宗の心は一念三千・性悪性善・妙覚の位に猶備われり元品の法性は梵天・帝釈等と顕われ元品の無明は第六天の魔王と顕われたり、善神は悪人をあだむ悪鬼は善人をあだむ、末法に入りぬれば自然に悪鬼は国中に充満せり瓦石草木の並び滋がごとし善鬼は天下に少し聖賢まれなる故なり、此の疫病は念仏者・真言師・禅宗・律僧等よりも日蓮が方にこそ多くやみ死ぬべきにて候か、いかにとして候やらん彼等よりもすくなくやみ・すくなく死に候は不思議にをぼへ候、人のすくなき故か又御信心の強盛なるか。

問うて云く日本国に此の疫病先代に有りや、答えて云く日本国は神武天皇よりは十代にあたらせ給いし崇神天皇の御代に疫病起りて日本国やみ死ぬる事半にすぐ、王始めて天照太神等の神を国国に崇しかば疫病やみぬ故に崇神天皇と申す、此れは仏法のいまだわたらざりし時の事なり、人王第三十代・並びに一二の三代の国主並びに臣下等疱瘡と疫病に御崩去等なりき、其の時は神にいのれども叶わざりき、去ぬる人王三十代・欽明天皇の御宇に百済国より経・論・僧等をわたすのみならず金銅の教主釈尊を渡し奉る、蘇我の宿禰等崇むべしと申す物部の大連等の諸臣並びに万民等は一同に此の仏は崇むべからず若し崇むるならば必ず我が国の神・瞋りをなして国やぶれなんと申す、王は両方弁まえがたくをはせしに三災・七難・先代に超えて起り万民皆疫死す、大連等便りを得て


奏問せしかば僧尼等をはじに及ぼすのみならず金銅の釈迦仏をすみををこして焼き奉る寺又同じ、爾の時に大連やみ死ぬ王も隠れさせ給い仏をあがめし蘇我の宿禰もやみぬ、大連が子・守屋の大臣云く此の仏をあがむる故に三代の国主すでに・やみかくれさせ給う我が父もやみ死ぬ、まさに知るべし仏をあがむる聖徳太子・馬子等はをやのかたき公の御かたきなりと申せしかば穴部の王子・宅部の王子等・並びに諸臣已下数千人一同によりきして仏と堂等をやきはらうのみならず、合戦すでに起りぬ結句は守屋討たれ了んぬ、仏法渡りて三十五年が間・年年に三災・七難・疫病起りしが守屋・馬子に討たるるのみならず神もすでに仏にまけしかば災難忽に止み了んぬ、其の後の代代の三災・七難等は大体は仏法の内の乱れより起るなり、而れども或は一人・二人或は一国・二国或は一類・二類或は一処・二処の事なれば神のたたりも有り謗法の故もあり民のなげきよりも起る。

而るに此の三十余年の三災・七難等は一向に他事を雑えず日本・一同に日蓮をあだみて国国・郡郡・郷郷・村村・人ごとに上一人より下万民にいたるまで前代未聞の大瞋恚を起せり、見思未断の凡夫の元品の無明を起す事此れ始めなり、神と仏と法華経にいのり奉らばいよいよ増長すべし、但し法華経の本門をば法華経の行者につけて除き奉る結句は勝負を決せざらん外は此の災難止み難かるべし、止観の十境・十乗の観法は天台大師説き給いて後・行ずる人無し、妙楽・伝教の御時少し行ずといへども敵人ゆわきゆへにさてすぎぬ、止観に三障・四魔と申すは権経を行ずる行人の障りにはあらず今日蓮が時具さに起れり、又天台・伝教等の時の三障・四魔よりもいまひとしをまさりたり。一念三千の観法に二つあり一には理・二には事なり天台・伝教等の御時には理なり今は事なり観念すでに勝る故に大難又色まさる、彼は迹門の一念三千・此れは本門の一念三千なり天地はるかに殊なりことなりと御臨終の御時は御心へ有るべく候、恐恐謹言。

  六月二十六日                    日蓮花押