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日蓮大聖人・池田大作

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可延定業書  (1/2) 日蓮悲母をいのりて候しかば現身に病をいやす…
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可延定業書

                    弘安二年 五十八歳御作

                    与 富木常忍妻

夫れ病に二あり一には軽病二には重病・重病すら善医に値うて急に対治すれば命猶存す何に況や軽病をや、業に二あり一には定業二には不定業、定業すら能く能く懺悔すれば必ず消滅す何に況や不定業をや、法華経第七に云く「此の経は則為閻浮提の人の病の良薬なり」等云云、此の経文は法華経の文なり、一代の聖教は皆如来の金言・無量劫より已来不妄語の言なり、就中此の法華経は仏の正直捨方便と申して真実が中の真実なり、多宝・証明を加え諸仏・舌相を添え給ういかでか・むなしかるべき、其の上最第一の秘事はんべり此の経文は後五百歳・二千五百余年の時女人の病あらんと・とかれて候文なり、阿闍世王は御年五十の二月十五日に大悪瘡・身に出来せり、大医耆婆が力も及ばず三月七日必ず死して無間大城に堕つべかりき、五十余年が間の大楽一時に滅して一生の大苦・三七日にあつまれり、定業限りありしかども仏・法華経をかさねて演説して涅槃経となづけて大王にあたい給いしかば身の病・忽に平愈し心の重罪も一時に露と消えにき、仏滅後一千五百余年・陳臣と申す人ありき命知命にありと申して五十年に定まりて候いしが天台大師に値いて十五年の命を宣べて六十五までをはしき、其の上不軽菩薩は更増寿命ととかれて法華経を行じて定業をのべ給いき、彼等は皆男子なり女人にはあらざれども法華経を行じて寿をのぶ、又陳臣は後五百歳にもあたらず冬の稲米・夏の菊花のごとし、当時の女人の法華経を行じて定業を転ずることは秋の稲米・冬の菊花誰か・をどろくべき。

されば日蓮悲母をいのりて候しかば現身に病をいやすのみならず四箇年の寿命をのべたり、今女人の御身として病を身にうけさせ給う・心みに法華経の信心を立てて御らむあるべし、しかも善医あり中務三郎左衛門尉殿は


法華経の行者なり、命と申す物は一身第一の珍宝なり一日なりとも・これを延るならば千万両の金にもすぎたり、法華経の一代の聖教に超過していみじきと申すは寿量品のゆへぞかし、閻浮第一の太子なれども短命なれば草よりもかろし、日輪のごとくなる智者なれども夭死あれば生犬に劣る、早く心ざしの財をかさねていそぎいそぎ御対治あるべし、此れよりも申すべけれども人は申すによて吉事もあり又我が志のうすきかと・をもう者もあり人の心しりがたき上先先に少少かかる事候、此の人は人の申せばすこそ心へずげに思う人なり、なかなか申すはあしかりぬべし、但なかうどもなく・ひらなさけに又心もなくうちたのませ給え、去年の十月これに来りて候いしが御所労の事をよくよくなげき申せしなり、当事大事のなければ・をどろかせ給わぬにや、明年正月二月のころをひは必ずをこるべしと申せしかば・これにも・なげき入つて候。

富木殿も此の尼ごぜんをこそ杖柱とも恃たるになんど申して候いしなり随分にわび候いしぞ・きわめて・まけじたましの人にて我がかたの事をば大事と申す人なり、かへすがへす身の財をだに・をしませ給わば此の病治がたかるべし、一日の命は三千界の財にもすぎて候なり先ず御志をみみへさせ給うべし、法華経の第七の巻に三千大千世界の財を供養するよりも手の一指を焼きて仏・法華経に供養せよと・とかれて候はこれなり、命は三千にもすぎて候・而も齢もいまだ・たけさせ給はず、而して法華経にあわせ給いぬ一日もいきてをはせば功徳つもるべし、あらをしの命や・をしの命や、御姓名並びに御年を我とかかせ給いて・わざと・つかわせ大日月天に申しあぐべし、いよどのもあながちになげき候へば日月天に自我偈をあて候はんずるなり、恐恐。

                            日蓮花押

   尼ごぜん御返事


富城殿御返事

尼御前御寿命長遠の由天に申し候ぞ其の故御物語り候へ。

不断法華経来年三月の料の分銭三貫文米二斗送り給び畢んぬ。

  十一月二十五日                   日蓮在御判

   富城殿御返事

四菩薩造立抄

                    弘安二年五月 五十八歳御作

白小袖一・薄墨染衣一・同色の袈裟一帖・鵞目一貫文給び候、今に始めざる御志言を以て宣べがたし何れの日を期してか対面を遂げ心中の朦朧を申し披や。

一御状に云く本門久成の教主釈尊を造り奉り脇士には久成地涌の四菩薩を造立し奉るべしと兼て聴聞仕り候いき、然れば聴聞の如くんば何の時かと云云、夫れ仏・世を去らせ給いて二千余年に成りぬ、其の間・月氏・漢土・日本国・一閻浮提の内に仏法の流布する事・僧は稲麻のごとく法は竹葦の如し、然るに・いまだ本門の教主釈尊並に本化の菩薩を造り奉りたる寺は一処も無し三朝の間に未だ聞かず、日本国に数万の寺寺を建立せし人人も本門の教主・脇士を造るべき事を知らず上宮太子・仏法最初の寺と号して四天王寺を造立せしかども阿弥陀仏を本尊として脇士には観音等・四天王を造り副えたり、伝教大師・延暦寺を立て給うに中堂には東方の鵞王の相貌を造りて本尊と