Nichiren・Ikeda

Search & Study

日蓮大聖人・池田大作

検索 & 研究 ver.9

如説修行抄  (2/4) 今に至るまで軍やむ事なし
502

を蒙りて此の土に生れけるこそ時の不祥なれ、法王の宣旨背きがたければ経文に任せて権実二教のいくさを起し忍辱の鎧を著て妙教の剣を提げ一部八巻の肝心・妙法五字の旗を指上て未顕真実の弓をはり正直捨権の箭をはげて大白牛車に打乗つて権門をかつぱと破りかしこへ・おしかけ・ここへ・おしよせ念仏・真言・禅・律等の八宗・十宗の敵人をせむるに或はにげ或はひきしりぞき或は生取られし者は我が弟子となる、或はせめ返し・せめをとしすれども・かたきは多勢なり法王の一人は無勢なり今に至るまで軍やむ事なし、法華折伏・破権門理の金言なれば終に権教権門の輩を一人もなく・せめをとして法王の家人となし天下万民・諸乗一仏乗と成つて妙法独り繁昌せん時、万民一同に南無妙法蓮華経と唱え奉らば吹く風枝をならさず雨壤を砕かず、代は羲農の世となりて今生には不祥の災難を払ひ長生の術を得、人法共に不老不死の理顕れん時を各各御覧ぜよ現世安穏の証文疑い有る可からざる者なり。

問うて云く如説修行の行者と申さんは何様に信ずるを申し候べきや、答えて云く当世・日本国中の諸人・一同に如説修行の人と申し候は諸乗一仏乗と開会しぬれば何れの法も皆法華経にして勝劣浅深ある事なし、念仏を申すも真言を持つも・禅を修行するも・総じて一切の諸経並びに仏菩薩の御名を持ちて唱るも皆法華経なりと信ずるが如説修行の人とは云われ候なり等云云、予が云く然らず所詮・仏法を修行せんには人の言を用う可らず只仰いで仏の金言をまほるべきなり我等が本師・釈迦如来は初成道の始より法華を説かんと思食しかども衆生の機根未熟なりしかば先ず権教たる方便を四十余年が間説きて後に真実たる法華経を説かせ給いしなり、此の経の序分無量義経にして権実のはうじを指て方便真実を分け給へり、所謂以方便力・四十余年・未顕真実是なり、大荘厳等の八万の大士・施権・開権・廃権等のいはれを心得分け給いて領解して言く法華経已前の歴劫修行等の諸経は終不得成・無上菩提と申しきり給ひぬ、然して後正宗の法華に至つて世尊法久後・要当説真実と説き給いしを始めとして


無二亦無三・除仏方便説・正直捨方便・乃至不受余経一偈と禁め給へり、是より已後は唯有一仏乗の妙法のみ一切衆生を仏になす大法にて法華経より外の諸経は一分の得益も・あるまじきに末法の今の学者・何れも如来の説教なれば皆得道あるべしと思いて或は真言・或は念仏・或は禅宗・三論・法相・倶舎・成実・律等の諸宗・諸経を取取に信ずるなり、是くの如き人をば若人不信・毀謗此経・即断一切世間仏種・乃至其人命終・入阿鼻獄と定め給へり、此等のをきての明鏡を本として一分もたがえず唯有一乗法と信ずるを如説修行の人とは仏は定めさせ給へり。

難じて云く左様に方便権教たる諸経諸仏を信ずるを法華経と云はばこそ、只一経に限りて経文の如く五種の修行をこらし安楽行品の如く修行せんは如説修行の者とは云われ候まじきか如何、答えて云く凡仏法を修行せん者は摂折二門を知る可きなり一切の経論此の二を出でざるなり、されば国中の諸学者等仏法をあらあら学すと云へども時刻相応の道をしらず四節・四季・取取に替れり、夏は熱く冬はつめたく春は花さき秋は菓なる春種子を下して秋菓を取るべし秋種子を下して春菓を取らんに豈取らる可けんや、極寒の時は厚き衣は用なり極熱の夏はなにかせん、凉風は夏の用なり冬はなにかせん、仏法も亦復是くの如し小乗の流布して得益あるべき時もあり、権大乗の流布して得益あるべき時もあり、実教の流布して仏果を得べき時もあり、然るに正像二千年は小乗権大乗の流布の時なり、末法の始めの五百年には純円・一実の法華経のみ広宣流布の時なり、此の時は闘諍堅固・白法隠没の時と定めて権実雑乱の砌なり、敵有る時は刀杖弓箭を持つ可し敵無き時は弓箭兵杖何にかせん、今の時は権教即実教の敵と成るなり、一乗流布の時は権教有つて敵と成りて・まぎらはしくば実教より之を責む可し、是を摂折二門の中には法華経の折伏と申すなり、天台云く「法華折伏・破権門理」とまことに故あるかな、然るに摂受たる四安楽の修行を今の時行ずるならば冬種子を下して春菓を求る者にあらずや、雞の暁に鳴くは用なり宵に鳴くは物怪なり、権実雑乱の時法華経の御敵を責めずして山林に閉じ籠り摂受を修行せんは豈法華経修行の時を


失う物怪にあらずや、されば末法・今の時・法華経の折伏の修行をば誰か経文の如く行じ給へしぞ、誰人にても坐せ諸経は無得道・堕地獄の根源・法華経独り成仏の法なりと音も惜まずよばはり給いて諸宗の人法共に折伏して御覧ぜよ三類の強敵来らん事疑い無し。

我等が本師・釈迦如来は在世八年の間折伏し給ひ天台大師は三十余年・伝教大師は二十余年・今日蓮は二十余年の間権理を破す其の間の大難数を知らず、仏の九横の難に及ぶか及ばざるは知らず、恐らくは天台・伝教も法華経の故に日蓮が如く大難に値い給いし事なし、彼は只悪口・怨嫉計りなり、是は両度の御勘気・遠国に流罪せられ竜口の頸の座・頭の疵等其の外悪口せられ弟子等を流罪せられ籠に入れられ檀那の所領を取られ御内を出だされし、是等の大難には竜樹・天台・伝教も争か及び給うべき、されば如説修行の法華経の行者には三類の強敵打ち定んで有る可しと知り給へ、されば釈尊御入滅の後二千余年が間に如説修行の行者は釈尊・天台・伝教の三人は・さてをき候ぬ、末法に入つては日蓮並びに弟子檀那等是なり、我等を如説修行の者といはずば釈尊・天台・伝教等の三人も如説修行の人なるべからず、提婆・瞿伽利・善星・弘法・慈覚・智証・善導・法然・良観房等は即ち法華経の行者と云はれ、釈尊・天台・伝教・日蓮並びに弟子・檀那は念仏・真言・禅・律等の行者なるべし、法華経は方便権教と云はれ念仏等の諸経は還つて法華経となるべきか、東は西となり西は東となるとも大地は持つ所の草木共に飛び上りて天となり天の日月・星宿は共に落ち下りて地となるためしはありとも・いかでか此の理あるべき。

哀なるかな今・日本国の万民・日蓮並びに弟子檀那等が三類の強敵に責められ大苦に値うを見て悦んで笑ふとも昨日は人の上・今日は身の上なれば日蓮並びに弟子・檀那共に霜露の命の日影を待つ計りぞかし、只今仏果に叶いて寂光の本土に居住して自受法楽せん時、汝等が阿鼻大城の底に沈みて大苦に値わん時我等何計無慚と思はんずらん、汝等何計うらやましく思はんずらん、一期を過ぐる事程も無ければいかに強敵重なるとも・ゆめゆめ退する