Nichiren・Ikeda

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日蓮大聖人・池田大作

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開目抄下  (4/28) 一言に大虚妄なりと・やぶるもんなり
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翁は我が子なりなんど申すと・かたるにもにたり、されば弥勒菩薩等疑つて云く「世尊・如来太子為りし時・釈の宮を出で伽耶城を去ること遠からずして道場に坐して阿耨多羅三藐三菩提を成ずることを得給えり、是より已来始めて四十余年を過ぎたり、世尊・云何ぞ此の少時に於て大いに仏事を作し給える」等云云、一切の菩薩始め華厳経より四十余年・会会に疑をまうけて一切衆生の疑網をはらす中に此の疑・第一の疑なるべし、無量義経の大荘厳等の八万の大士・四十余年と今との歴劫・疾成の疑にも超過せり、観無量寿経に韋提希夫人の阿闍世王が提婆にすかされて父の王をいましめ母を殺さんとせしが耆婆月光に・をどされて母をはなちたりし時仏を請じたてまつて・まづ第一の問に云く「我れ宿し何の罪あつて此の悪子を生む世尊・復た何等の因縁有つて提婆達多と共に眷属となり給う」等云云、此の疑の中に「世尊復た何等の因縁有つて」等の疑は大なる大事なり、輪王は敵と共に生れず帝釈は鬼と・ともならず仏は無量劫の慈悲者なりいかに大怨と共にはまします還つて仏には・ましまさざるかと疑うなるべし、而れども仏答え給はず、されば観経を読誦せん人・法華経の提婆品へ入らずば・いたづらごとなるべし、大涅槃経に迦葉菩薩の三十六の問もこれには及ばず、されば仏・此の疑を晴させ給はずば一代の聖教は泡沫にどうじ一切衆生は疑網にかかるべし、寿量の一品の大切なるこれなり。

其の後・仏・寿量品を説いて云く「一切世間の天人及び阿修羅は皆今の釈迦牟尼仏は釈氏の宮を出で伽耶城を去ること遠からず道場に坐して阿耨多羅三藐三菩提を得給えりと謂えり」等云云、此の経文は始め寂滅道場より終り法華経の安楽行品にいたるまでの一切の大菩薩等の所知をあげたるなり、「然るに善男子・我れ実に成仏してより已来・無量無辺百千万億那由佗劫なり」等云云、此の文は華厳経の「三処の始成正覚」阿含経に云く「初成」浄名経の「始坐仏樹」大集経に云く「始十六年」大日経の「我昔坐道場」等・仁王経の「二十九年」無量義経の「我先道場」法華経の方便品に云く「我始坐道場」等を一言に大虚妄なりと・やぶるもんなり


此の過去常顕るる時・諸仏皆釈尊の分身なり爾前・迹門の時は諸仏・釈尊に肩を並べて各修・各行の仏なり、かるがゆへに諸仏を本尊とする者・釈尊等を下す、今華厳の台上・方等・般若・大日経等の諸仏は皆釈尊の眷属なり、仏三十成道の御時は大梵天王・第六天等の知行の娑婆世界を奪い取り給いき、今爾前・迹門にして十方を浄土と・がうして此の土を穢土ととかれしを打ちかへして此の土は本土なり十方の浄土は垂迹の穢土となる、仏は久遠の仏なれば迹化・他方の大菩薩も教主釈尊の御弟子なり、一切経の中に此の寿量品ましまさずば天に日月の・国に大王の・山河に珠の・人に神のなからんが・ごとくして・あるべきを華厳・真言等の権宗の智者とをぼしき澄観・嘉祥・慈恩・弘法等の一往・権宗の人人・且は自の依経を讃歎せんために或は云く「華厳経の教主は報身・法華経は応身」と・或は云く「法華寿量品の仏は無明の辺域・大日経の仏は明の分位」等云云、雲は月をかくし讒臣は賢人をかくす・人讃すれば黄石も玉とみへ諛臣も賢人かとをぼゆ、今濁世の学者等・彼等の讒義に隠されて寿量品の玉を翫ばず、又天台宗の人人もたぼらかされて金石・一同のをもひを・なせる人人もあり、仏・久成に・ましまさずば所化の少かるべき事を弁うべきなり、月は影を慳ざれども水なくば・うつるべからず、仏・衆生を化せんと・をぼせども結縁うすければ八相を現ぜず、例せば諸の声聞が初地・初住には・のぼれども爾前にして自調自度なりしかば未来の八相をごするなるべし、しかれば教主釈尊始成ならば今此の世界の梵帝・日月・四天等は劫初より此の土を領すれども四十余年の仏弟子なり、霊山・八年の法華結縁の衆今まいりの主君にをもひつかず久住の者にへだてらるるがごとし、今久遠実成あらはれぬれば東方の薬師如来の日光・月光・西方阿弥陀如来の観音勢至・乃至十方世界の諸仏の御弟子・大日・金剛頂等の両部の大日如来の御弟子の諸大菩薩・猶教主釈尊の御弟子なり、諸仏・釈迦如来の分身たる上は諸仏の所化申すにをよばず何に況や此の土の劫初より・このかたの日月・衆星等・教主釈尊の御弟子にあらずや。


而るを天台宗より外の諸宗は本尊にまどえり、倶舎・成実・律宗は三十四心・断結成道の釈尊を本尊とせり、天尊の太子が迷惑して我が身は民の子とをもうがごとし、華厳宗・真言宗・三論宗・法相宗等の四宗は大乗の宗なり、法相・三論は勝応身ににたる仏を本尊とす天王の太子・我が父は侍と・をもうがごとし、華厳宗・真言宗は釈尊を下げて盧舎那の大日等を本尊と定む天子たる父を下げて種姓もなき者の法王のごとくなるに・つけり、浄土宗は釈迦の分身の阿弥陀仏を有縁の仏とをもうて教主をすてたり、禅宗は下賤の者・一分の徳あつて父母をさぐるがごとし、仏をさげ経を下す此皆本尊に迷えり、例せば三皇已前に父をしらず人皆禽獣に同ぜしが如し、寿量品をしらざる諸宗の者は畜に同じ不知恩の者なり、故に妙楽云く「一代教の中未だ曾て遠を顕さず、父母の寿知らずんばある可からず若し父の寿の遠きを知らずんば復父統の邦に迷う、徒に才能と謂うとも全く人の子に非ず」等云云、妙楽大師は唐の末・天宝年中の者なり三論・華厳・法相・真言等の諸宗・並に依経を深くみ広く勘えて寿量品の仏をしらざる者は父統の邦に迷える才能ある畜生とかけるなり、徒謂才能とは華厳宗の法蔵・澄観・乃至真言宗の善無畏三蔵等は才能の人師なれども子の父を知らざるがごとし、伝教大師は日本顕密の元祖・秀句に云く「他宗所依の経は一分仏母の義有りと雖も然も但愛のみ有つて厳の義を闕く、天台法華宗は厳愛の義を具す一切の賢聖・学・無学及び菩薩心を発せる者の父なり」等云云、真言・華厳等の経経には種熟脱の三義・名字すら猶なし何に況や其の義をや、華厳・真言経等の一生初地の即身成仏等は経は権経にして過去をかくせり、種をしらざる脱なれば超高が位にのぼり道鏡が王位に居せんとせしがごとし。

宗宗・互に種を諍う予此をあらそはず但経に任すべし、法華経の種に依つて天親菩薩は種子無上を立てたり天台の一念三千これなり、華厳経・乃至諸大乗経・大日経等の諸尊の種子・皆一念三千なり天台智者大師・一人此の法門を得給えり、華厳宗の澄観・此の義を盗んで華厳経の心如工画師の文の神とす、真言・大日経等には二乗作