Nichiren・Ikeda

Search & Study

日蓮大聖人・池田大作

検索 & 研究 ver.9

御講聞書  (24/41) 十界の衆生悉く諸法実相の仏
830

されば釈にも出世以前と判ぜり、此は大通仏出世し給えども十小劫の間・一経も説給わずと云う経文なり、仍て仏法も現前せざる故に不得成仏と云えり、されども釈を見るに出世以前と云う時は、此の経文は何なる事ぞ此は本法の重を説かれたり、一仏出世すれば流転門となる、一仏も出世無き時は、本法不思議の体なり、迷悟もなく、生仏もなく、成仏もなく、不成仏もなきなり、仍つて不得成仏道と云えり、抑も本法と申すは水があつくなり、火がつめたくならば流転門なるべし、水はいつもつめたく、火はいつもあつく、地獄は何も火焔・餓鬼はいつも飢渇・其の外・万法己己の当位・当位の儘なるを本法の体と云うなり、此の重を説き顕したる経文なり、此の本法の重は法華経なり、権教は流転なり、此の流転の衆生を本法の重に引入せられんとての仏の出世なり、其の本法と云うは此の経なり、所詮此の経文・本法とは大通智勝仏と云うは我等衆生の色心なり、十劫と云うは十界なり、坐道場と云うは十界の住所其の儘道場なり、道場なれば寂光土なり、法界寂光土にして、十界の衆生悉く諸法実相の仏なれば一仏現ずべきに非ず、迷の衆生無ければ説く可き法も無し、仍つて仏法不現前と云えり、不得成仏道とは始覚本覚の成仏と云う事も無し、本法不思議の体にして万法本有なり、之れに依つて釈には出世以前と判ぜり、然らば、其の本法の体とは、所詮南無妙法蓮華経なり、此の本法の内証に引入せんが為に、仏は四十余年誘引し、終に第五時の本法を説き給えり、今末法に入つて上行所伝の本法の南無妙法蓮華経を弘め奉る、日蓮・世間に出世すと云えども、三十二歳までは、此の題目を唱え出さざるは、仏法不現前なり、此の妙法蓮華経を弘めて、終には本法の内証に引入するなり日蓮・豈大通智勝仏に非ずや、日本国の一切衆生こそ十劫坐道場とて十界其の儘・本法の南無妙法蓮華経へ引入するなり、所詮信心を出だして南無妙法蓮華経と唱え奉る可き者なり云云。

一貧人見此珠其心大歓喜の事

仰に云く此珠とは一乗無価の宝珠なり、貧人とは下根の声聞なり、惣じて一


切衆生なり、所詮末法に入つて此珠とは南無妙法蓮華経なり、貧人とは日本国の一切衆生なり、此の題目を唱え奉る者は心大歓喜せり、されば見宝塔と云う見と此珠とは同じ事なり所詮此珠とは我等衆生の一心なり、一念三千なり此の経に値い奉る時、一念三千と開くを珠を見るとは云うなり、此の珠は広く一切衆生の心法なり此の珠は体中にある財用なり、一心に三千具足の財を具足せり、此の珠を方便品にして諸法実相と説き、譬喩品にては大白牛車・三草二木・五百由旬の宝塔、共に皆一珠の妙法蓮華経の宝珠なり、此の経文・色心の実相歓喜を説けり・見此珠の見は色法なり、其心大と云うは心法なり、色心共に歓喜なれば大歓喜と云うなり、所詮此珠と云うは我等衆生の心法なり、仍つて一念三千の宝珠なり、所謂妙法蓮華経なり、今末代に入つて此の珠を顕す事は日蓮等の類いなり所謂未曾有の大曼荼羅こそ正しく一念三千の宝珠なれ、見の字は日本国の一切衆生、広くは一閻浮提の衆生なり、然りと雖も其心大歓喜と云う時は、日蓮が弟子檀那等の信者をさすなり、所詮煩悩即菩提・生死即涅槃と体達する、其心大歓喜なり、されば、我等衆生・五百塵点の下種の珠を失いて、五道・六道に輪廻し、貧人となる、近くは三千塵点の下種を捨てて備輪諸道せり、之れに依つて貧人と成る、今此の珠を釈尊に値い奉りて見付け得て本の如く取り得たり、此の故に心大歓喜せり、末法当今に於いて妙法蓮華経の宝珠を受持し奉りて、己心を見るに、十界互具・百界千如・一念三千の宝珠を分明に具足せり、是れ併ら末法の要法たる題目なり云云。

一如甘露見灌の事

仰に云く甘露とは天上の甘露なり、されば妙楽大師云く実相常住は甘露の如し是れ不死の薬云云、此の釈の心は諸法実相の法体をば甘露に譬えたり、甘露は不死の薬と云えり、所詮妙とは不死の薬なり、此の心は不死とは法界を指すなり、其の故は森羅三千の万法を不思議と歎じたり、生住異滅の当位当位・三世常恒なるを不死と云う、本法の徳として・水はくだりつめたく火はのぼりあつし、此れを妙と云う、此れ即


ち不思議なり、此の重を不死とは云うなり、甘露と妙とは同じ事なり、然らば法界の儘に閣いて妙法なりと説くを本法とも甘露とも云えり、火は水にきゆる本法にして不死なり、十界己己の当位・当位の振舞・常住本有なるを甘露とも妙法とも不思議とも本法とも止観とも云えり、所詮末法に入つて甘露とは南無妙法蓮華経なり、見灌とは受持の一行なり云云。

一若有悪人以不善心等の事

仰に云く悪人とは在世にては提婆・瞿伽利等なり、不善心とは悪心を以て仏を罵詈し奉る事を説くなり、滅後には悪人とは弘法・慈覚・智証・善導・法然等是なり、不善心とは謗言なり此の謗言を書写したる十住心等・選択集等の謗法の書どもなり、さて末法に入て善人とは日蓮等の類いなり善心とは法華弘通の信心なり所謂南無妙法蓮華経是なり云云。

一如是如是の事

仰に云く釈に云く法相の是に如し根性の是に如するなり文、法相の是に如すとは諸法実相を重ねて如是と説かれたり、根性の是に如すとは、九法界を説かれたり、然れば機法共に釈迦如来の所説の如く真実なりと証明し給えり、始の如是は教一開会なり次の如是は人一開会なり、権教の意は諸法を妄法ときらいし隔別不融の教なり、根性に於ては性欲不同なれば種種に説法し給えり、仍つて人も成仏せず、今の経の心は諸法実相の御経なれば十界平等に授くる所の妙法なり、根性は不同なれども同じく如是性の一性なり、所詮今末法に入つての如法相是は塔中相承の本尊なり如根性是也と云うは十界宛然の尊像なり法相は南無妙法蓮華経なり、根性は日本国の一切衆生広くは一閻浮提の衆生なり云云。

一是真仏子住淳善地の事

仰に云く末法当今に於て釈迦如来の真実の御子と云うは法華経の行者なり、其の故は上の文に能於来世読持此経と説けり来世とは末法なり、読むと云うは法華経の如説修行の行者なり、弘法・慈覚・智証・善導・法然等読みて云く第三の劣・戯論の法・捨閉閣抛・理同事勝等と読むは謗法にして三仏の御舌