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日蓮大聖人・池田大作

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御講聞書  (34/41) 日蓮が弟子臆病にては叶う可からざる事
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けり、相構え相構えて無明の悪酒を恐るべきなり云云。

一日蓮己証の事

仰に云く寿量品の南無妙法蓮華経是れなり、地涌千界の出現・末代の当世の別付属の妙法蓮華経の五字を一閻浮提の一切衆生に取次ぎ給うべき仏勅使の上行菩薩なり云云、取次とは取るとは釈尊より上行菩薩の手へ取り給うさて上行菩薩又末法当今の衆生に取次ぎ給えり是を取次ぐとは云うなり、広くは末法万年までの取次なり、是を無令断絶とは説かれたり、又結要の五字とも申すなり云云、上行菩薩取次の秘法は所謂南無妙法蓮華経なり云云。

一釈尊の持言秘法の事

仰に云く持言の秘法の経文とは寿量品に云く、毎自作是念の文是なり、毎の字は三世常住なり、是念の念とは、わすれ給わずして内証に具足し給えり故に持言なり、秘法とは南無妙法蓮華経是なり秘す可し秘す可し云云。

一日蓮門家の大事の事

仰に云く此の門家の大事は涌出品の前三後三の釈なり、此の釈無くんば本化迹化の不同・像法付属・末法付属・迹門・本門等の起尽之れ有る可からず、既に止善男子の止の一字は日蓮門家の大事なり秘す可し秘す可し、総じて止の一字は正しく日蓮門家の明鏡の中の明鏡なり口外も詮無し、上行菩薩等を除いては総じて余の菩薩をば悉く止の一字を以て成敗せり云云。

日蓮が弟子臆病にては叶う可からざる事

仰に云く此の意は問答対論の時は爾前迹門の釈尊をも用う可からざるなり、此れは臆病にては釈尊を用いまじきかなんど思うべき故なり、釈尊をさえ用う可からず何に況や其の以下の等覚の菩薩をやまして謗法の人人に於ておや、所謂南無妙法蓮華経の大音声を出だして諸経諸宗を対治すべし、巧於難問答其心無所畏とは是なり云云。

一妙法蓮華経の五字を眼と云う事

仰に云く法華第四に云く、仏滅度後能解其義是諸天人世間之眼と云云、


此の経文の意は、法華経は人天・二乗・菩薩・仏の眼目なり、此の眼目を弘むるは日蓮一人なり、此の眼には五眼あり、所謂肉眼・天眼・慧眼・法眼・仏眼なり、此の眼をくじりて別に眼を入れたる人あり、所謂弘法大師是なり、法華経の一念三千・即身成仏・諸仏の開眼を止めて、真言経にありと云えり、是れ豈法華経の眼を抽れる人に非ずや、又此の眼をとじふさぐ人あり所謂法然上人是れなり、捨閉の閉の文字は、閉眼の義に非ずや、所詮能弘の人に約しては、日蓮等の類い世間之眼なり、所弘の法に随えば、此の大乗経典は、是れ諸仏の眼なり、所詮眼の一字は一念三千の法門なり、六万九千三百八十四字を此の眼の一字に納めたり、此の眼の字顕われて見れば煩悩即菩提・生死即涅槃なり、今末法に入つて、眼とは所謂未曾有の大曼荼羅なり、此の御本尊より外には眼目無きなり云云。

一法華経の行者に水火の行者の事

仰に云く総じて此の経を信じ奉る人に水火の不同あり、其の故は火の如きの行者は多く水の如き行者はまれなり、火の如しとは此の経のいわれをききて火炎のもえ立つが如く貴く殊勝に思いて信ずれども・やがて消失す、此れは当座は大信心と見えたれども・其の信心の灯・きゆる事やすし・さて水の如きの行者と申すは水は昼夜不退に流るるなり少しもやむ事なし、其の如く法華経を信ずるを水の行者とは云うなり云云。

一女人と妙と釈尊と一体の事

仰に云く女人は子を出生す、此の出生の子・又子を出生す此くの如く展転して無数の子を出生せり、此の出生の子に善子もあり・悪子もあり端厳美麗の子もあり・醜陋の子もあり・長のひくき子もあり・大なる子もあり・男子もあり・女子もあり云云、所詮・妙の一字より万法は出生せり地獄もあり・餓鬼もあり・乃至仏界もあり・権教もあり・実教もあり・善もあり・悪もあり・諸法を出生せり云云、又釈迦一仏の御身より一切の仏・菩薩等悉く出生せり、阿弥陀・薬師・大日等は悉く釈尊の一月より万水に浮ぶ所の万影なり、然らば


女人と妙と釈尊との三全く不同無きなり、妙楽大師の云く妙即三千・三千即法云云、提婆品に云く有一宝珠価直三千大千世界是なり云云。

一置不呵責の文の事

仰に云く此の経文に於ては日蓮等の類のおそるべき文字一字之れ有り、若し此の文字を恐れざれば縦い当座は事なしとも未来無間の業たるべし、然らば無間地獄へ引き入る獄卒なるべし夫れは置の一字是なり云云、此の置の一字は獄卒なるべし謗法不信の失を見ながら聞きながら云わずして置かんは必ず無間地獄へ堕在す可し、仍つて置の一字・獄卒・阿防羅刹なるべし尤も以て恐る可きは置の一字なり云云、所詮此の経文の内に獄卒の一字を恐るべきなり云云、此の獄卒の一字を深く之を思う可し、日蓮は此の字を恐る故に建長五年より今弘安年中まで在在所所にて申しはりしなり只偏に此の獄卒を脱れんが為なり、法華経には若人不信とも生疑不信者とも説き給えり、法華経の文文句句をひらき涅槃経の文文句句をひらきたりとも置いていわずんば叶う可からざるは此の置の一字より外に獄卒は無きなり云云。

一異念無く霊山浄土へ参る可き事

仰に云く異念とは不信の事なり若し我が心なりとも不信の意出来せば忽に信心に住すべし、所詮不信の心をば師となすべからず信心の心を師匠とすべし心信敬に法華経を修行し奉るべきなり、されば能持是経能説此経と説きて能の字を説かせ給えり霊山ここにあり四土一念皆常寂光とは是なり云云。

一不可失本心の事

仰に云く此の本心と云うは法華経の信心の事なり、失と申すは謗法の人にすかされて法華経を捨つる心の出来するを云うなり、されば天台大師云く若し悪友に値えば則ち本心を失うと云云、此の釈に悪友とは謗法の人の事なり、本心とは法華経なり、法華経を本心と云う意は諸法実相の御経なれば十界の衆生の心法を法華経とは申すなり、而るに此の本心を引きかえて迷妄の法に着するが故に本心を失うなり、此の本心に