Nichiren・Ikeda

Search & Study

日蓮大聖人・池田大作

検索 & 研究 ver.9

御義口伝巻上  (7/43) 門とは信心の事なり
715

無量とは即ち称歎の辞なり仏の実智の竪に如理の底に徹することを明す故に甚深と言う、横に法界の辺を窮む故に無量と言う無量甚深にして竪に高く横に広し、譬えば根深ければ則ち条茂く源遠ければ則ち流長きが如し実智既に然り権智例して爾り云云、其智慧門は即ち是れ権智を歎ずるなり蓋し是れ自行の道前の方便進趣の力有り故に名けて門と為す、門より入つて道中に到る道中を実と称し道前を権と謂うなり、難解難入とは権を歎ずるの辞なり不謀にして了し無方の大用あり、七種の方便測度すること能わず十住に始めて解す十地を入と為す初と後とを挙ぐ中間の難示難悟は知る可し、而るに別して声聞縁覚の所不能知を挙ぐることは執重きが故に別して之を破するのみ、記の三に云く竪高横広とは中に於て法譬合あり此れを以て後を例す、今実を釈するに既に周く横竪を窮めたり下に権を釈するに理深極なるべし、下に当に権を釈すべし予め其の相を述す故に云云と註す、其智慧門とは其とは乃ち前の実果の因智を指す若し智慧即門ならば門は是れ権なり若し智慧の門ならば智即ち果なり、蓋し是等とは此の中に須く十地を以て道前と為し妙覚を道中と為し証後を道後と為すべし、故に知んぬ文の意は因の位に在りと。

御義口伝に云く此の本末の意分明なり、中に竪に高く横に広しとは竪は本門なり横は迹門なり、根とは草木なり草木は上へ登る此れは迹門の意なり、源とは本門なり源は水なり水は下へくだる此れは本門の意なり、条茂とは迹門十四品なり流長とは本門十四品なり智慧とは一心の三智なり門とは此の智慧に入る処の能入の門なり三智の体とは南無妙法蓮華経なり門とは信心の事なり、爰を以て第二の巻に以信得入と云う入と門とは之れ同じきなり、今日蓮等の類い南無妙法蓮華経と唱え奉るを智慧とは云うなり、譬喩品に云く「唯有一門」と門に於て有門・空門・亦有亦空門・非有非空門あるなり、有門は生なり空門は死なり亦有亦空門は生死一念なり非有非空門は生に非ず死に非ず有門は題目の文字なり空門は此の五字に万法を具足して一方にとどこうらざる義な


り、亦有亦空門は五字に具足する本迹なり非有非空門は一部の意なり、此の内証は法華已前の二乗の智慧の及ばざる所なり、文句の三に云く「七種の方便測度すること能わず」と、今日蓮等の類いは此の智慧に得入するなり、仍て偈頌に除諸菩薩衆信力堅固者と云うは我等行者の事を説くなり云云。

第三 唯以一大事因縁の事

文句の四に云く一は即ち一実相なり五に非ず三に非ず七に非ず九に非ず故に一と言うなり、其の性広博にして五三七九より博し故に名けて大と為す、諸仏出世の儀式なり故に名けて事と為す、衆生に此の機有つて仏を感ず故に名けて因と為す、仏機を承けて而も応ず故に名けて縁となす、是を出世の本意と為す。

御義口伝に云く一とは法華経なり大とは華厳なり事とは中間の三味なり、法華已前にも三諦あれども砕けたる珠は宝に非ざるが如し云云、又云く一とは妙なり大とは法なり事とは蓮なり因とは華なり縁とは経なり云云、又云く我等が頭は妙なり喉は法なり胸は蓮なり胎は華なり足は経なり此の五尺の身妙法蓮華経の五字なり、此の大事を釈迦如来・四十余年の間隠密したもうなり今経の時説き出したもう此の大事を説かんが為に仏は出世したもう我等が一身の妙法五字なりと開仏知見する時・即身成仏するなり、開とは信心の異名なり信心を以て妙法を唱え奉らば軈て開仏知見するなり、然る間信心を開く時南無妙法蓮華経と示すを示仏知見と云うなり、示す時に霊山浄土の住処と悟り即身成仏と悟るを悟仏知見と云うなり、悟る当体・直至道場なるを入仏知見と云うなり、然る間信心の開仏知見を以て正意とせり、入仏知見の入の字は迹門の意は実相の理内に帰入するを入と云うなり本門の意は理即本覚と入るなり、今日蓮等の類い南無妙法蓮華経と唱え奉る程の者は宝塔に入るなり云云、又云く開仏知見の仏とは九界所具の仏界なり知見とは妙法の二字止観の二字寂照の二徳生死の二法なり色心因果なり、所詮知見とは妙法なり九界所具の仏心を法華経の知見にて開く事なり、爰を以て之を思う


に仏とは九界の衆生の事なり、此の開覚顕れて今身より仏身に至るまで持つや否やと示す処が妙法を示す示仏知見と云うなり、師弟感応して受け取る時如我等無異と悟るを悟仏知見と云うなり、悟つて見れば法界三千の己己の当体法華経なり此の内証に入るを入仏知見と云うなり秘す可し云云、又云く四仏知見とは八相なり開とは生の相なり入とは死の相なり中間の示悟は六相なり下天託胎等は示仏知見なり出家降魔成道転法輪等は悟仏知見なり、権教の意は生死を遠離する教なるが故に四仏知見に非ざるなり、今経の時生死の二法は一心の妙用・有無の二道は本覚の真徳と開覚するを四仏知見と云うなり、四仏知見を以て三世の諸仏は一大事と思召し世に出現したもうなり、此の開仏知見の法華経を法然は捨閉閣抛と云い弘法大師は第三の劣戯論の法とののしれり、五仏道同の舌をきる者に非ずや、慈覚大師智証等は悪子に剣を与えて我が親の頭をきらする者に非ずや云云、又云く一とは中諦・大とは空諦・事とは仮諦なり此の円融の三諦は何物ぞ所謂南無妙法蓮華経是なり、此の五字日蓮出世の本懐なり之を名けて事と為す、日本国の一切衆生の中に日蓮が弟子檀那と成る人は衆生有此機感仏故名為因の人なり、夫れが為に法華経の極理を弘めたるは承機而応故名為縁に非ずや、因は下種なり縁は三五の宿縁に帰するなり、事の一念三千は、日蓮が身に当りての大事なり、一とは一念・大とは三千なり此の三千ときたるは事の因縁なり事とは衆生世間・因とは五陰世間・縁とは国土世間なり、国土世間の縁とは南閻浮提は妙法蓮華経を弘むべき本縁の国なり、経に云く「閻浮提内広令流布使不断絶」是なり云云。 

第四 五濁の事

文句の四に云く劫濁は別の体無し劫は是長時・刹那は是短時なり、衆生濁は別の体無し見慢果報を攬る煩悩濁は五鈍使を指て体と為し見濁は五利使を指て体と為し命濁は連持色心を指して体と為す。

御義口伝に云く日蓮等の類いは此の五濁を離るるなり、我此土安穏なれば劫濁に非ず・実相無作の仏身なれば衆生濁に非ず・煩悩即菩提生死即涅槃の妙旨なれば煩悩濁に非ず・五百塵点劫より無始本有の身なれば命濁に