Nichiren・Ikeda

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日蓮大聖人・池田大作

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妙密上人御消息  (5/5) 功徳身にあつまらせ給うべし
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し、仏の金言空くして正直の御経に大妄語を雑へたるなるべし、此等を以て思ふに恐くは天台伝教の聖人にも及ぶべし又老子孔子をも下しぬべし、日本国の中に但一人・南無妙法蓮華経と唱えたり、これは須弥山の始の一塵大海の始の一露なり、二人・三人・十人・百人・一国・二国・六十六箇国・已に島二にも及びぬらん、今は謗ぜし人人も唱へ給うらん、又上一人より下万民に至るまで法華経の神力品の如く一同に南無妙法蓮華経と唱へ給ふ事もやあらんずらん、木はしづかならんと思へども風やまず・春を留んと思へども夏となる、日本国の人人は法華経は尊とけれども日蓮房が悪ければ南無妙法蓮華経とは唱えまじと・ことはり給ふとも・今一度も二度も大蒙古国より押し寄せて壹岐・対馬の様に男をば打ち死し女をば押し取り・京・鎌倉に打ち入りて国主並びに大臣百官等を搦め取り・牛馬の前に・けたて・つよく責めん時は争か南無妙法蓮華経と唱へざるべき、法華経の第五の巻をもつて日蓮が面を数箇度打ちたりしは日蓮は何とも思はずうれしくぞ侍りし、不軽品の如く身を責め勧持品の如く身に当つて貴し貴し。

但し法華経の行者を悪人に打たせじと・仏前にして起請をかきたりし・梵王・帝釈・日月・四天等いかに口惜かるらん、現身にも天罰をあたらざる事は小事ならざれば・始中終をくくりて其の身を亡すのみならず議せらるるか、あへて日蓮が失にあらず・謗法の法師等をたすけんが為に彼等が大禍を自身に招きよせさせ給うか。

此等を以て思ふに便宜ごとの青鳧五連の御志は日本国の法華経の題目を弘めさせ給ふ人に当れり、国中の諸人・一人・二人・乃至千万億の人・題目を唱うるならば存外に功徳身にあつまらせ給うべし、其の功徳は大海の露をあつめ須弥山の微塵をつむが如し、殊に十羅刹女は法華経の題目を守護せんと誓わせ給う、此を推するに妙密上人並びに女房をば母の一子を思ふが如く・犛牛の尾を愛するが如く昼夜にまほらせ給うらん、たのもし・たのもし、事多しといへども委く申すにいとまあらず、女房にも委く申し給へ此は諂へる言にはあらず、金はやけば弥


色まさり剣はとげば弥利くなる・法華経の功徳はほむれば弥功徳まさる、二十八品は正き事はわずかなり讃むる言こそ多く候へと思食すべし。

  閏三月五日                     日蓮花押

   楅谷妙密上人御返事

道妙禅門御書

                    建治二年八月 五十五歳御作

御親父祈祷の事承り候間仏前にて祈念申すべく候、祈祷に於ては顕祈顕応・顕祈冥応・冥祈冥応・冥祈顕応の祈祷有りと雖も只肝要は此の経の信心を致し給い候はば現当の所願満足有る可く候、法華第三に云く「魔及び魔民有りと雖も皆仏法を護る」第七に云く「病即消滅して不老不死ならん」との金言之を疑う可からず、妙一尼御前当山参詣有り難く候、巻物一巻之を進らせ候披見有るべく候、南無妙法蓮華経。

  建治二年丙子八月十日                日蓮花押

   道妙禅門


日女御前御返事

                    建治三年八月 五十六歳御作

御本尊供養の御為に鵞目五貫・白米一駄・菓子其の数送り給び候い畢んぬ、抑此の御本尊は在世五十年の中には八年・八年の間にも涌出品より属累品まで八品に顕れ給うなり、さて滅後には正法・像法・末法の中には正像二千年には・いまだ本門の本尊と申す名だにもなし、何に況や顕れ給はんをや又顕すべき人なし、天台妙楽伝教等は内には鑒み給へども故こそあるらめ言には出だし給はず、彼の顔淵が聞きし事・意にはさとるといへども言に顕していはざるが如し、然るに仏滅後二千年過ぎて末法の始の五百年に出現せさせ給ふべき由経文赫赫たり明明たり・天台妙楽等の解釈分明なり。

爰に日蓮いかなる不思議にてや候らん竜樹天親等・天台妙楽等だにも顕し給はざる大曼荼羅を・末法二百余年の比はじめて法華弘通のはたじるしとして顕し奉るなり、是全く日蓮が自作にあらず多宝塔中の大牟尼世尊分身の諸仏すりかたぎたる本尊なり、されば首題の五字は中央にかかり・四大天王は宝塔の四方に坐し・釈迦・多宝・本化の四菩薩肩を並べ普賢・文殊等・舎利弗・目連等坐を屈し・日天・月天・第六天の魔王・竜王・阿修羅・其の外不動・愛染は南北の二方に陣を取り・悪逆の達多・愚癡の竜女一座をはり・三千世界の人の寿命を奪ふ悪鬼たる鬼子母神・十羅刹女等・加之日本国の守護神たる天照太神・八幡大菩薩・天神七代・地神五代の神神・総じて大小の神祇等・体の神つらなる・其の余の用の神豈もるべきや、宝塔品に云く「諸の大衆を接して皆虚空に在り」云云、此等の仏菩薩・大聖等・総じて序品列坐の二界八番の雑衆等一人ももれず、此の御本尊の中に住し給い妙法五字の光明にてらされて本有の尊形となる是を本尊とは申すなり。