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日蓮大聖人・池田大作

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三世諸仏総勘文教相廃立  (8/18) 己心と仏心とは異ならず
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成る、十法界を互に具足し平等なる十界の衆生なれば虚空の本月も水中の末月も一人の身中に具足して闕くること無し故に十如是は本末究竟して等しく差別無し、本とは衆生の十如是なり末とは諸仏の十如是なり諸仏は衆生の一念の心より顕れ給えば衆生は是れ本なり諸仏は是れ末なり、然るを経に云く「今此の三界は皆是我が有なり其の中の衆生は悉く是吾が子なり」と已上、仏成道の後に化他の為の故に迹の成道を唱えて生死の夢中にして本覚の寤を説き給うなり、智慧を父に譬え愚癡を子に譬えて是くの如く説き給えるなり、衆生は本覚の十如是なりと雖も一念の無明眠りの如く心を覆うて生死の夢に入つて本覚の理を忘れ髪筋を切る程に過去・現在・未来の三世の虚夢を見るなり、仏は寤の人の如くなれば生死の夢に入つて衆生を驚かし給える智慧は夢の中にて父母の如く夢の中なる我等は子息の如くなり、此の道理を以て悉是吾子と言い給うなり、此の理を思い解けば諸仏と我等とは本の故にも父子なり末の故にも父子なり父子の天性は本末是れ同じ、斯れに由つて己心と仏心とは異ならずと観ずるが故に生死の夢を覚まして本覚の寤に還えるを即身成仏と云うなり、即身成仏は今我が身の上の天性・地体なり煩も無く障りも無き衆生の運命なり果報なり冥加なり、夫れ以れば夢の時の心を迷いに譬え寤の時の心を悟りに譬う之を以て一代聖教を覚悟するに跡形も無き虚夢を見て心を苦しめ汗水と成つて驚きぬれば我身も家も臥所も一所にて異らず夢の虚と寤の実との二事を目にも見・心にも思えども所は只一所なり身も只一身にて二の虚と実との事有り之を以て知んぬ可し、九界の生死の夢見る我が心も仏界常住の寤の心も異ならず九界生死の夢見る所が仏界常住の寤の所にて変らず心法も替らず在所も差わざれども夢は皆虚事なり寤は皆実事なり止観に云く「昔荘周と云うもの有り夢に胡蝶と成つて一百年を経たり苦は多く楽は少く汗水と成つて驚きぬれば胡蝶にも成らず百年をも経ず苦も無く楽も無く皆虚事なり皆妄想なり」已上取意、弘決に云く「無明は夢の蝶の如く三千は百年の如し一念実無きは猶蝶に非ざるが如く三千も亦無きこと年を積むに非るが如し」已上、此の釈は即身


成仏の証拠なり夢に蝶と成る時も荘周は異ならず寤に蝶と成らずと思う時も別の荘周無し、我が身を生死の凡夫なりと思う時は夢に蝶と成るが如く僻目・僻思なり、我が身は本覚の如来なりと思う時は本の荘周なるが如し即身成仏なり、蝶の身を以て成仏すと云うに非ざるなり蝶と思うは虚事なれば成仏の言は無し沙汰の外の事なり、無明は夢の蝶の如しと判ずれば我等が僻思は猶昨日の夢の如く性体無き妄想なり誰の人か虚夢の生死を信受して疑を常住涅槃の仏性に生ぜんや、止観に云く「無明の癡惑本より是れ法性なり癡迷を以ての故に法性変じて無明と作り諸の顛倒の善・不善等を起す寒来りて水を結べば変じて堅冰と作るが如く・又眠来りて心を変ずれば種種の夢有るが如し今当に諸の顛倒は即ち是法性なり一ならず異ならずと体すべし、顛倒起滅すること旋火輪の如しと雖も顛倒の起滅を信ぜずして唯此の心・但是れ法性なりと信ず、起は是れ法性の起滅は是れ法性の滅なり其れを体するに実には起滅せざるを妄りに起滅すと謂えり只妄想を指すに悉く是れ法性なり、法性を以て法性に繋け法性を以て法性を念ず常に是れ法性なり法性ならざる時無し」已上、是くの如く法性ならざる時の隙も無き理の法性に夢の蝶の如く無明に於て実有の思を生じて之に迷うなり、止観の九に云く「譬えば眠の法・心を覆うて一念の中に無量世の事を夢みるが如し乃至寂滅真如に何の次位か有らん、乃至一切衆生即大涅槃なり復滅す可からず何の次位・高下・大小有らんや、不生不生にして不可説なれども因縁有るが故に亦説くことを得可し十因縁の法・生の為に因と作る虚空に画き方便して樹を種るが如し一切の位を説くのみ」已上、十法界の依報・正報は法身の仏・一体三身の徳なりと知つて一切の法は皆是れ仏法なりと通達し解了する是を名字即と為す名字即の位より即身成仏す故に円頓の教には次位の次第無し・故に玄義に云く「末代の学者多く経論の方便の断伏を執して諍闘す水の性の冷かなるが如きも飲まずんば安んぞ知らん」已上、天台の判に云く「次位の綱目は仁王・瓔珞に依り断伏の高下は大品・智論に依る」已上、仁王・瓔珞・大品・大智度論是の経論は皆法華已前の八教の経論なり、権


教の行は無量劫を経て昇進する次位なれば位の次第を説けり今法華は八教に超えたる円なれば速疾頓成にして心と仏と衆生と此の三は我が一念の心中に摂めて心の外に無しと観ずれば下根の行者すら尚一生の中に妙覚の位に入る・一と多と相即すれば一位に一切の位皆是れ具足せり故に一生に入るなり、下根すら是くの如し況や中根の者をや何に況や上根をや実相の外に更に別の法無し実相には次第無きが故に位無し、総じて一代の聖教は一人の法なれば我が身の本体を能く能く知る可し之を悟るを仏と云い之に迷うは衆生なり此れは華厳経の文の意なり、弘決の六に云く「此の身の中に具さに天地に倣うことを知る頭の円かなるは天に象り足の方なるは地に象ると知り・身の内の空種なるは即ち是れ虚空なり腹の温かなるは春夏に法とり背の剛きは秋冬に法とり・四体は四時に法とり大節の十二は十二月に法とり小節の三百六十は三百六十日に法とり、鼻の息の出入は山沢渓谷の中の風に法とり口の息の出入は虚空の中の風に法とり眼は日月に法とり開閉は昼夜に法とり髪は星辰に法とり眉は北斗に法とり脈は江河に法とり骨は玉石に法とり皮肉は地土に法とり毛は叢林に法とり、五臓は天に在つては五星に法とり地に在つては五岳に法とり陰・陽に在つては五行に法とり世に在つては五常に法とり内に在つては五神に法とり行を修するには五徳に法とり罪を治むるには五刑に法とる謂く墨・劓・剕・宮・大辟此の五刑は人を様様に之を傷ましむ其の数三千の罰有り此を五刑と云う主領には五官と為す五官は下の第八の巻に博物誌を引くが如し謂く苟萠等なり、天に昇つては五雲と曰い化して五竜と為る、心を朱雀と為し腎を玄武と為し肝を青竜と為し肺を白虎と為し脾を勾陳と為す」又云く「五音・五明・六藝・皆此れより起る亦復当に内治の法を識るべし覚心内に大王と為つては百重の内に居り出でては則ち五官に侍衛せ為る、肺をば司馬と為し肝をば司徒と為し脾をば司空と為し四支をば民子と為し、左をば司命と為し右をば司録と為し人命を主司す、乃至臍をば太一君等と為すと禅門の中に広く其の相を明す」已上、人身の本体委く検すれば是くの如し、然るに此の金剛不壊の身を以て生滅無常の身なりと思う僻思は譬えば荘周が夢の