Nichiren・Ikeda

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日蓮大聖人・池田大作

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御講聞書  (16/41) 此の題目の五字、我等衆生の為には、三途の河…
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の位に至るを直至道場とは云うなり、直至と云う文の意は、四十二位を爰にて極めたり、此の直の一字は、地獄即寂光・餓鬼即寂光土なり、法華経の行者の住処、山谷曠野なりとも、直至道場なり、道場とは究竟の寂光なり、仍つて乗此宝乗の上の乗は法華の行者、此の品の意にては中根の四大声聞なり、惣じて一切衆生の事なり、今末法に入つては日蓮等の類いなり、宝乗の乗の字は大白牛車の妙法蓮華経なり、然れば上の乗は能乗・下の乗は所乗なり、宝乗は蓮華なり、釈迦・多宝等の諸仏も、此の宝乗に乗じ給えり、此れを提婆品に重ねて説く時・若在仏前蓮華化生と云云、釈迦・多宝の二仏は我等が己心なり、此の己心の法華経に値い奉つて成仏するを顕わさんとして釈迦・多宝・二仏・並座して乗此宝乗・直至道場を顕わし給えり、此の乗とは車なり、車は蓮華なり、此の蓮華の上の妙法は、我等が生死の二法・二仏なり、直至の至は此れより彼へいたるの至るには非ず住処即寂光と云うを至とは云うなり、此の宝乗の宝は七宝の大車なり、七宝即ち頭上の七穴・七穴即ち末法の要法・南無妙法蓮華経是なり、此の題目の五字、我等衆生の為には、三途の河にては船となり、紅蓮地獄にては寒さをのぞき、焦熱地獄にては凉風となり、死出の山にては蓮華となり、渇せる時は水となり・飢えたる時は食となり、裸かなる時は衣となり、妻となり、子となり、眷属となり、家となり、無窮の応用を施して一切衆生を利益し給うなり、直至道場とは是なり、仍つて此の身を取りも直さず寂光土に居るを直至道場とは云うなり、直の字心を留めて之を案ず可し云云。

一若人不信毀謗此経則断一切世間仏種の事

仰に云く此の経文の意は小善成仏を信ぜずんば一切世間の仏種を断ずと云う事なり、文句の五に云く、今経に小善成仏を明す、此れは縁因を取つて仏種と為す、若し小善の成仏を信ぜずんば、即と一切世間の仏種を断ずるなり文、爾前経の心は小善成仏を明さざるなり、法華経の意は一華・一香の小善も法華経に帰すれば大善となる、縦い法界に充満せる大善なりとも此の経に値わずんば善根とは


ならず、譬えば諸河の水・大海に入りぬれば鹹の味となる、入らざれば本の水なり、法界の善根も、法華経へ帰入せざれば善根とはならざるなり、されば釈に云く、断一切仏種とは浄名には煩悩を以て如来の種と為す、此れ境界性を取るなり、此の釈の心は浄名経の心ならば我等衆生の一日一夜に作す所の罪業・八億四千の念慮を起す、余経の意は皆三途の業因と説くなり、法華経の意は、此の業因・即ち仏ぞと明せり、されば煩悩を以て如来の種子とすと云うは此の義なり、此の浄名経の文は、正しく文在爾前・義在法華の意なり、此の境界性と云うは、末師釈する時、能生煩悩・名境界性と判ぜり、我等衆生の眼耳等の六根に妄執を起すなり、是を境界性と云うなり、権教の意は此の念慮を捨てよと説けり、法華経の心は、此の境界性の外に、三因仏性の種子なし、是れ則ち三身円満の仏果となるべき種性なりと説けり、此の種性を、権教を信ずる人は之を知らず此の経を謗るが故に、凡夫即極の義をも知らず、故に一切世間の仏種を断ずるなり、されば六道の衆生も三因仏性を具足して、終に三身円満の尊容を顕す可き所に、此の経を謗ずるが故に、六道の仏種をも断ずるなり、されば妙楽大師云く、此の経は遍く六道の仏種を開す、若し此の経を謗ずるは、義・断に当るなりと、所詮日蓮が意は一切の言は十界をさす、此の経を謗ずるは十界の仏種を断ずるなり、されば、誹謗の二字を大論に云く、口に謗るを誹と云い、心に背くを謗と云うと、仍つて色心三業に経て、法華経を謗じ奉る人は入阿鼻獄疑い無きなり、所謂弘法・慈覚・智証・善導・法然・達磨等の大謗法の者なり、今日蓮等の類い南無妙法蓮華経と唱え奉る、豈三世の諸仏の仏種を継ぐ者に非ずや云云。

一捨悪知識親近善友の事

仰に云く悪知識とは在世にては善星・瞿伽利・提婆等是なり、善友とは迦葉・舎利弗・阿難・目連等是なり、末法当今に於て悪智識と云うは法然・弘法・慈覚・智証等の権人謗法の人人なり、善智識と申すは日蓮等の類の事なり、惣じて知識に於て重重之れ有り、外護の知識・同行の知識・実相の知識是なり、所


詮実相の知識とは所謂南無妙法蓮華経是なり、知識とは形をしり、心をしるを云うなり、是れ即ち色心の二法なり、謗法の色心を捨てて法華経の妙境・妙智の色心を顕すべきなり、悪友は謗法の人人なり、善友は日蓮等の類いなり。

一無上宝聚不求自得の事

仰に云く、此の無上宝聚に於て一には釈尊の因行・果徳の万行・万善の骨髄を宝聚と云うなり、二には妙法蓮華経の事なり、不求とは中根の四大声聞は此くの如き宝聚を任運自在と得たり此実我子我実其父の故なり、総じては一切衆生の事なり、自得と云うは自は十界の事なり、此れは自我得仏来の自と同じ事なり、得も又同じ事なり末法に入つては自得とは日蓮等の類いなり、自とは法華経の行者、得とは題目なり、得の一字には師弟を含みたり、与うると得るとの義を含めり、不求とは仏法に入るには修行・覚道の辛労あり、釈迦如来は往来娑婆八千反の御辛労にして求め給う功徳なり、さて今の釈迦牟尼仏と成り給えり、法華経の行者は求めずして此の功徳を受得せり仍て自得とは説かれたり、此の自の字は一念なり得は三千なり、又自は三千・得は一念なり、又た自は自なり得は他なり、総じて自得の二字に法界を尽せり、所詮此の妙法蓮華経を自より得たり、自とは釈尊なり、釈尊は即ち我が一心なり、一心の釈迦より受得し奉る南無妙法蓮華経なり、日蓮も生年三十二にして自得し奉る題目なり云云。

一薬草喩品の事

仰に云く薬とは是好良薬の南無妙法蓮華経なり、妙法を頂上にいただきたる草なれば、薬に非ずと云う事なし、草は中根の声聞なれども、惣じては一切衆生なり、譬えば土器に薬をかけたるが如し、我等衆生・父母果縛の肉身に南無妙法蓮華経の薬をかけたり、煩悩即菩提・生死即涅槃は是なり云云、此の分を教うるを喩とは申すなり、釈に云く、喩とは暁訓なりと、提婆・竜女の畜生・人間も、天帝・羅漢・菩薩等も、悉く薬草の仏に非ずと云う事なし、末法当今の法華の行者の日蓮等の類い、薬草にして日本国の一切衆生の薬王なり