Nichiren・Ikeda

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日蓮大聖人・池田大作

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一代聖教大意  (6/16) 白歯
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      ├─十 地─┐
           ├─無明を断ぜる菩薩
      ├─等 覚─┘
      
      └─妙 覚───無明を断じ尽せる仏なり

此の教は大乗なり戒定慧を明す・戒は前の蔵通二教に似ず尽未来際の戒・金剛宝戒なり、此の教の菩薩は三悪道を恐しとせず二乗道を恐る地・餓・畜等の三悪道は仏の種子を断ぜず二乗の道は仏の種子を断ずればなり、大荘厳論に云く「恒に地獄に処すと雖も大菩提を障えず若し自利の心を起さば是れ大菩提の障なり」と、此の教の習は真の悪道とは三無為の火阬なり真の悪人とは二乗を云うなり、されば悪を造るとも二乗の戒をば持たじと談ず、故に大般若経に云く「若し菩薩設い恒河沙劫に妙なる五欲を受くるとも菩薩戒に於ては猶犯と名けずと・若し一念二乗の心を起さば即ち名けて犯と為す」文、此の文に妙なる五欲とは色・声・香・味・触の五欲なり・色欲とは青黛・珂雪・白歯等声欲とは絲竹管絃・香欲とは沈檀芳薫・味欲とは猪鹿等の味・触欲とは輭膚等なり、此に恒河沙劫に著すれども菩薩戒は破れず一念の二乗の心を起すに菩薩戒は破ると云える文なり、太賢の古迹に云く「貪に汚さるると雖も大心尽きざるをもつて無余の犯無し起せども無犯と名く」文、二乗戒に趣くを菩薩の破戒とは申すなり華厳・般若・方等総じて爾前の経にはあながちに二乗をきらうなり定慧此れを略す、梵網経に云く「戒をば謂いて大地と為し定をば謂いて室宅と為す智慧は為灯明なり」文、此の菩薩戒は人・畜・黄門・二形の四種を嫌わず但一種の菩薩戒を授く、此の教の意は五十二位を一一の位に多倶低劫を経て衆生界を尽して仏に成るべし一人として一生に仏に成る者無し、又一行を以て仏に成る事無し一切行を積んで仏と成る微塵を積んで須弥山と成すが如し、華厳・方等・般若・梵網・瓔珞等の経に此の旨分明なり、但し二乗界の此の戒を受くる事を嫌ふ、妙楽の釈に云く「徧く法華已前の諸経を尋ぬるに実に二乗作仏の文無し」文。


次に円教とは此の円教に二有り一には爾前の円・二には法華・涅槃の円なり、爾前の円に五十二位・又戒定慧あり、爾前の円とは華厳経の法界唯心の法門・文に云く「初発心の時便ち正覚を成ずと」又云く「円満修多羅」文、浄名経に云く「無我無造にして受者無けれども善悪の業敗亡せず」文、般若経に云く「初発心より即ち道場に坐す」文、観経に云く「韋提希時に応じて即ち無生法忍を得」文、梵網経に云く「衆生仏戒を受くれば位大覚に同じ即ち諸仏の位に入り真に是れ諸仏の子なり」文、此は皆爾前の円の証文なり、此の教の意は又五十二位を明す名は別教の五十二位の如し但し義はかはれり、其の故は五十二位が互に具して浅深も無く勝劣も無し、凡夫も位を経ずとも仏にも成り又往生するなり、煩悩も断ぜざれども仏に成る障り無く一善一戒を以ても仏に成る少少開会の法門を説く処もあり、所謂浄名経には凡夫を会し煩悩悪法も皆会す但し二乗を会せず、般若経の中には二乗の所学の法門をば開会して二乗の人と悪人をば開会せず、観経等の経に凡夫一毫の煩悩をも断ぜず往生すと説くは皆爾前の円教の意なり、法華経の円経は後に至つて書く可し已上四教

次に五時、五時とは一には華厳経結経梵網経別円二教を説く、二には阿含結経遺教経但三蔵教の小乗の法門を説く、三には方等経・宝積経・観経等の説時を知らざる権大乗経なり結経瓔珞経、但し蔵・通・別・円の四教を皆説く、四には般若経結経仁王経通教・別教・円教の後三教を説く三蔵教を説かず、華厳経は三七日の間の説・阿含経は十二年の説・方等・般若は三十年の説、已上華厳より般若に至る四十二年なり、山門の義には方等は説時定まらず説処定まらず般若経三十年と申す、寺門の義には方等十六年・般若十四年と申す、秘蔵の大事の義には方等般若は説時三十年・但し方等は前・般若は後と申すなり、仏は十九出家・三十成道と定むる事は大論に見えたり、一代聖教五十年と申す事は涅槃経に見えたり、法華経已前・四十二年と申す事は無量義経に見えたり、法華経・八箇年と申す事は涅槃経の五十年の文と無量義経の四十二年の文の間を勘うれば八箇年なり、已上十九出家・三十成道・五十年の転法輪・八


十入滅と定む可し、此等の四十二年の説教は皆法華経の汲引の方便なり、其の故は無量義経に云く「我先に道場菩提樹下に端坐すること六年阿耨多羅三藐三菩提を成ずることを得たり○方便力を以てす、四十余年には未だ真実を顕さず初に四諦を説き阿含経なり次に方等十二部経摩訶般若華厳海空を説く」文。

私に云く説の次第に順ずれば華厳・阿含・方等・般若・法華・涅槃なり、法門の浅深の次第を列ぬれば阿含・方等・般若・華厳・涅槃・法華と列ぬべし、されば法華経・涅槃経には爾くの如く見えたり華厳宗と申す宗は智厳法師・法蔵法師・澄観法師等の人師・華厳経に依つて立てたり、倶舎宗・成実宗・律宗は宝法師・光法師・道宣等の人師・阿含経に依つて立てたり、法相宗と申す宗は玄奘三蔵・慈恩法師等・方等部の内に上生経・下生経・成仏経・解深密経・瑜伽論・唯識論等の経論に依つて立てたり、三論宗と申す宗は般若経・百論・中論・十二門論・大論等の経論に依つて吉蔵大師立て給へり、華厳宗と申すは華厳と法華涅槃は同じく円教と立つ余は皆劣と云うなる可し、法相宗には解深密経と華厳・般若・法華・涅槃は同じ程の経と云う、三論宗とは般若経と華厳・法華・涅槃は同じ程の経なり、但し法相の依経・諸の小乗経は劣なりと立つ、此等は皆法華已前の諸経に依つて立てたる宗なり、爾前の円を極として立てたる宗どもなり、宗宗の人人の諍は有れども経経に依つて勝劣を判ぜん時はいかにも法華経は勝れたるべきなり、人師の釈を以て勝劣を論ずる事無し。

五には法華経と申すは開経には無量義経一巻法華経八巻・結経には普賢経一巻上の四教・四時の経論を書き挙ぐる事は此の法華経を知らん為なり、法華経の習としては前の諸経を習わずしては永く心を得ること莫きなり、爾前の諸経は一経・一経を習うに又余経を沙汰せざれども苦しからず、故に天台の御釈に云く「若し余経を弘むるには教相を明さざれども義に於て傷むこと無し若し法華を弘むるには教相を明さずんば文義闕くること有り」文、法華経に云く「種種の道を示すと雖も其れ実には仏乗の為なり」文、種種の道と申すは爾前一切の諸経なり仏乗の