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日蓮大聖人・池田大作

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種種御振舞御書  (10/17) 利剣をもて・うりをきり大風の草をなびかすが…
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人にはあらず、あやまちあるならば重連が大なる失なるべし、それよりは只法門にてせめよかしと云いければ念仏者等・或は浄土の三部経・或は止観・或は真言等を小法師等が頸にかけさせ或はわきにはさませて正月十六日にあつまる、佐渡の国のみならず越後・越中・出羽・奥州・信濃等の国国より集れる法師等なれば塚原の堂の大庭・山野に数百人・六郎左衛門尉・兄弟一家さならぬもの百姓の入道等かずをしらず集りたり、念仏者は口口に悪口をなし真言師は面面に色を失ひ天台宗ぞ勝つべきよしを・ののしる、在家の者どもは聞ふる阿弥陀仏のかたきよと・ののしり・さわぎ・ひびく事・震動雷電の如し、日蓮は暫らく・さはがせて後・各各しづまらせ給へ・法門の御為にこそ御渡りあるらめ悪口等よしなしと申せしかば・六郎左衛門を始めて諸人然るべしとて悪口せし念仏者をば・そくびをつきいだしぬ、さて止観・真言・念仏の法門一一にかれが申す様を・でつしあげて承伏せさせては・ちやうとはつめつめ・一言二言にはすぎず、鎌倉の真言師・禅宗・念仏者・天台の者よりも・はかなきものどもなれば只思ひやらせ給へ、利剣をもて・うりをきり大風の草をなびかすが如し、仏法のおろかなる・のみならず或は自語相違し或は経文をわすれて論と云ひ釈をわすれて論と云ふ、善導が柳より落ち弘法大師の三鈷を投たる大日如来と現じたる等をば或は妄語或は物にくるへる処を一一にせめたるに、或は悪口し或は口を閉ぢ或は色を失ひ或は念仏ひが事なりけりと云うものもあり、或は当座に袈裟・平念珠をすてて念仏申すまじきよし誓状を立つる者もあり。

皆人立ち帰る程に六郎左衛門尉も立ち帰る一家の者も返る、日蓮不思議一云はんと思いて六郎左衛門尉を大庭よりよび返して云くいつか鎌倉へのぼり給うべき、かれ答えて云く下人共に農せさせて七月の比と云云、日蓮云く弓箭とる者は・ををやけの御大事にあひて所領をも給わり候をこそ田畠つくるとは申せ、只今いくさのあらんずるに急ぎうちのぼり高名して所知を給らぬか、さすがに和殿原はさがみの国には名ある侍ぞかし、田舎にて田つくり・いくさに・はづれたらんは恥なるべしと申せしかば・いかにや思いけめあはててものもいはず、念仏者・


持斎・在家の者どもも・なにと云う事ぞやと恠しむ。

さて皆帰りしかば去年の十一月より勘えたる開目抄と申す文二巻造りたり、頸切るるならば日蓮が不思議とどめんと思いて勘えたり、此の文の心は日蓮によりて日本国の有無はあるべし、譬へば宅に柱なければ・たもたず人に魂なければ死人なり、日蓮は日本の人の魂なり平左衛門既に日本の柱をたをしぬ、只今世乱れてそれともなく・ゆめの如くに妄語出来して此の御一門どしうちして後には他国よりせめらるべし、例せば立正安国論に委しきが如し、かやうに書き付けて中務三郎左衛門尉が使にとらせぬ、つきたる弟子等もあらぎかなと思へども力及ばざりげにてある程に、二月の十八日に島に船つく、鎌倉に軍あり京にもあり・そのやう申す計りなし、六郎左衛門尉・其の夜にはやふねをもつて一門相具してわたる日蓮にたな心を合せて・たすけさせ給へ、去る正月十六日の御言いかにやと此程疑い申しつるに・いくほどなく三十日が内にあひ候いぬ、又蒙古国も一定渡り候いなん、念仏無間地獄も一定にてぞ候はんずらん永く念仏申し候まじと申せしかば、いかに云うとも相模守殿等の用ひ給はざらんには日本国の人用うまじ用ゐずば国必ず亡ぶべし、日蓮は幼若の者なれども法華経を弘むれば釈迦仏の御使ぞかし、わづかの天照太神・正八幡なんどと申すは此の国には重けれども梵釈・日月・四天に対すれば小神ぞかし、されども此の神人なんどをあやまちぬれば只の人を殺せるには七人半なんど申すぞかし、太政入道・隠岐法皇等のほろび給いしは是なり、此れはそれにはにるべくもなし教主釈尊の御使なれば天照太神・正八幡宮も頭をかたぶけ手を合せて地に伏し給うべき事なり、法華経の行者をば梵釈・左右に侍り日月・前後を照し給ふ、かかる日蓮を用いぬるともあしくうやまはば国亡ぶべし、何に況や数百人ににくませ二度まで流しぬ、此の国の亡びん事疑いなかるべけれども且く禁をなして国をたすけ給へと日蓮がひかうればこそ今までは安穏にありつれども・はうに過ぐれば罰あたりぬるなり、又此の度も用ひずば大蒙古国より打手を向けて日本国ほろぼさるべし、


ただ平左衛門尉が好むわざわひなり、和殿原とても此の島とても安穏なるまじきなりと申せしかば、あさましげにて立帰りぬ、さて在家の者ども申しけるは・此の御房は神通の人にてましますか・あらおそろし・おそろし、今は念仏者をも・やしなひ持斎をも供養すまじ、念仏者・良観が弟子の持斎等が云く此の御房は謀叛の内に入りたりけるか、さて且くありて世間しづまる。

又念仏者集りて僉議す、かうてあらんには我等かつえしぬべし・いかにもして此の法師を失はばや、既に国の者も大体つきぬ・いかんがせん、念仏者の長者の唯阿弥陀仏・持斎の長者の性諭房・良観が弟子の道観等・鎌倉に走り登りて武蔵守殿に申す、此の御房・島に候ものならば堂塔一宇も候べからず僧一人も候まじ、阿弥陀仏をば或は火に入れ或は河にながす、夜もひるも高き山に登りて日月に向つて大音声を放つて上を呪咀し奉る、其の音声・一国に聞ふと申す、武蔵前司殿・是をきき上へ申すまでもあるまじ、先ず国中のもの日蓮房につくならば或は国をおひ或はろうに入れよと私の下知を下す、又下文下るかくの如く三度其の間の事申さざるに心をもて計りぬべし、或は其の前をとをれりと云うて・ろうに入れ或は其の御房に物をまいらせけりと云うて国をおひ或は妻子をとる、かくの如くして上へ此の由を申されければ案に相違して去る文永十一年二月十四日の御赦免の状・同三月八日に島につきぬ、念仏者等・僉議して云く此れ程の阿弥陀仏の御敵・善導和尚・法然上人をのるほどの者が・たまたま御勘気を蒙りて此の島に放されたるを御赦免あるとていけて帰さんは心うき事なりと云うて、やうやうの支度ありしかども何なる事にや有りけん、思はざるに順風吹き来りて島をば・たちしかばあはいあしければ百日・五十日にもわたらず、順風には三日なる所を須臾の間に渡りぬ、越後のこう・信濃の善光寺の念仏者・持斎・真言等は雲集して僉議す、島の法師原は今まで・いけてかへすは人かつたいなり、我等はいかにも生身の阿弥陀仏の御前をば・とをすまじと僉議せしかども、又越後のこうより兵者ども・あまた日蓮にそひて善光寺をとをりしかば力