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日蓮大聖人・池田大作

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上野尼御前御返事  (2/2) 南無妙法蓮華経と申す女人の・をもう子に・あ…
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ころす、子はかたきと申す経文ゆわれて候、又子は財と申す経文あり、妙荘厳王は一期の後・無間大城と申す地獄へ堕ちさせ給うべかりしが浄蔵と申せし太子にすくわれて・大地獄の苦をまぬがれさせ給うのみならず・娑羅樹王仏と申す仏とならせ給う、生提女と申せし女人は慳貪のとがによつて餓鬼道に堕ちて候いしが・目連と申す子にたすけられて餓鬼道を出で候いぬ、されば子を財と申す経文たがう事なし。

故五郎殿はとし十六歳・心ね・みめかたち人にすぐれて候いし上・男ののうそなわりて万人に・ほめられ候いしのみならず、をやの心に随うこと・水のうつわものに・したがい・かげの身に・したがうがごとし、いへにては・はしらとたのみ・道にては・つへとをもいき、はこのたからも・この子のため・つかう所従もこれがため、我しなば・になわれて・のぼへゆきなんのちの・あとをもいをく事なしとふかくをぼしめしたりしに・いやなくさきにたちぬれば・いかんにや・いかんにや・ゆめか・まぼろしか・さめなん・さめなんと・をもへども・さめずして・としも又かへりぬ、いつとまつべしとも・をぼへず、ゆきあうべき・ところだにも申しをきたらば・はねなくとも天へものぼりなん、ふねなくとも・もろこしへも・わたりなん、大地のそこに・ありときかば・いかでか地をもほらざるべきと・をぼしめすらむ。

やすやすとあわせ給うべき事候、釈迦仏を御使として・りやうぜん浄土へまいりあわせ給へ、若有聞法者無一不成仏と申して大地はささば・はづるとも日月は地に堕ち給うとも・しをはみちひぬ世はありとも・花はなつにならずとも・南無妙法蓮華経と申す女人の・をもう子に・あわずという事はなしととかれて候ぞ、いそぎ・いそぎつとめさせ給へ・つとめさせ給へ、恐恐謹言。

  正月十三日                     日蓮花押

   上野尼御前御返事


上野殿御返事

蹲鴟一俵給び了んぬ。

又かうぬしのもとに候・御乳塩一疋・並びに口付一人候、さては故五郎殿の事は・そのなげきふりずとおもへども・御けさんは・はるかなるやうにこそ・おぼえ候へ、なをも・なをも・法華経をあだむ事は・たえつとも見え候はねば・これよりのちも・いかなる事か候はんずらめども・いままでこらへさせ給へる事まことしからず候、仏の説いての給はく火に入りて・やけぬ者はありとも・大水に入りてぬれぬものはありとも大山は空へ・とぶとも大海は天へあがるとも・末代悪世に入れば須臾の問も法華経は信じがたき事にて候ぞ。

徽宗皇帝は漢土の主じ・蒙古国に・からめとられさせ給いぬ、隠岐の法王は日本国のあるじ・右京の権大夫殿に・せめられさせ給いて・島にてはてさせ給いぬ、法華経のゆへにてだにも・あるならば即身に仏にもならせ給いなん、わづかの事には身をやぶり命をすつれども、法華経の御ゆへに・あやしのとがに・あたらんとおもふ人は候はぬぞ、身にて心みさせ給い候いぬらん、たうとし・たうとし、恐恐謹言。

  弘安四年三月十八日                 日蓮花押

   上野殿御返事


南条殿御返事

御使の申し候を承り候、是の所労難儀のよし聞え候、いそぎ療治をいたされ候いて御参詣有るべく候。

塩一駄・大豆一俵・とつさか一袋・酒一筒・給び候、上野の国より御帰宅候後は未だ見参に入らず候、牀敷存じ候いし処に品品の物ども取り副え候いて御音信に預り候事申し尽し難き御志にて候。

今申せば事新しきに相似て候へども・徳勝童子は仏に土の餅を奉りて阿育大王と生れて南閻浮提を大体知行すと承り候、土の餅は物ならねども仏のいみじく渡らせ給へば・かくいみじき報いを得たり、然るに釈迦仏は・我を無量の珍宝を以て億劫の間・供養せんよりは・末代の法華経の行者を一日なりとも供養せん功徳は百千万億倍・過ぐべしとこそ説かせ給いて候に、法華経の行者を心に入れて数年供養し給う事有り難き御志かな、金言の如くんば定めて後生は霊山浄土に生れ給うべしいみじき果報なるかな。

其の上此の処は人倫を離れたる山中なり、東西南北を去りて里もなし、かかる・いと心細き幽窟なれども教主釈尊の一大事の秘法を霊鷲山にして相伝し・日蓮が肉団の胸中に秘して隠し持てり、されば日蓮が胸の間は諸仏入定の処なり、舌の上は転法輪の所・喉は誕生の処・口中は正覚の砌なるべし、かかる不思議なる法華経の行者の住処なれば・いかでか霊山浄土に劣るべき、法妙なるが故に人貴し・人貴きが故に所尊しと申すは是なり、神力品に云く「若しは林の中に於ても若しは樹の下に於ても若しは僧坊に於ても乃至而般涅槃したもう」と云云、此の砌に望まん輩は無始の罪障忽に消滅し三業の悪転じて三徳を成ぜん、彼の中天竺の無熱池に臨みし悩者が心中の熱気を除愈して其の願を充満する事清涼池の如しとうそぶきしも・彼れ此れ異なりといへども、其の意は争でか