Nichiren・Ikeda

Search & Study

日蓮大聖人・池田大作

検索 & 研究 ver.9

報恩抄  (25/37) 修羅は帝釈をあだみて日天を・いたてまつる其…
317

さにてあるやらん去ぬる文永十一年四月十二日の大風は阿弥陀堂の加賀法印・東寺第一の智者の雨のいのりに吹きたりし逆風なり、善無畏・金剛智・不空の悪法をすこしもたがへず伝えたりけるか心にくし心にくし。

弘法大師は去ぬる天長元年の二月大旱魃のありしに先には守敏・祈雨して七日が内に雨を下す但京中にふりて田舎にそそがず、次に弘法承取て一七日に雨気なし二七日に雲なし三七日と申せしに天子より和気の真綱を使者として御幣を神泉苑にまいらせたりしかば天雨下事三日、此れをば弘法大師並に弟子等此の雨をうばひとり我が雨として今に四百余年・弘法の雨という、慈覚大師の夢に日輪をいしと弘法大師の大妄語に云く弘仁九年の春・大疫をいのりしかば夜中に大日輪出現せりと云云、成劫より已来・住劫の第九の減・已上二十九劫が間に日輪夜中に出でしという事なし、慈覚大師は夢に日輪をいるという内典五千七千・外典三千余巻に日輪をいると・ゆめにみるは吉夢という事有りやいなや、修羅は帝釈をあだみて日天を・いたてまつる其の矢かへりて我が眼にたつ、殷の紂王は日天を的にいて身を亡す、日本の神武天皇の御時度美長と五瀬命と合戦ありしに命の手に矢たつ、命の云く我はこれ日天の子孫なり日に向い奉りて弓をひくゆへに日天のせめを・かをほれりと云云、阿闍世王は邪見をひるがえして仏に帰しまいらせて内裏に返りて・ぎよしんなりしが、おどろいて諸臣に向て云く日輪・天より地に落つと・ゆめにみる諸臣の云く仏の御入滅か云云、須跋陀羅がゆめ又かくのごとし、我国は殊にいむべきゆめなり神をば天照という国をば日本という、又教主釈尊をば日種と申す摩耶夫人・日をはらむと・ゆめにみて・まうけ給える太子なり、慈覚大師は大日如来を叡山に立て釈迦仏をすて真言の三部経をあがめて法華経の三部の敵となせしゆへに此の夢出現せり。

例せば漢土の善導が始は密州の明勝といゐし者に値うて法華経をよみたりしが後には道綽に値うて法華経をすて観経に依りて疏をつくり法華経をば千中無一・念仏をば十即十生・百即百生と定めて此の義を成ぜんがために


阿弥陀仏の御前にして祈誓をなす、仏意に叶うやいなや毎夜夢の中に常に一りの僧有りて来て指授すと云云、乃至一経法の如くせよ乃至観念法門経等云云、法華経には「若し法を聞く者有れば一として成仏せざる無し」と善導は「千の中に一も無し」等云云、法華経と善導とは水火なり善導は観経をば十即十生・百即百生・無量義経に云く「観経は未だ真実を顕さず」等云云、無量義経と楊柳房とは天地なり此れを阿弥陀仏の僧と成りて来つて汝が疏は真なりと証し給わんはあに真事ならんや、抑阿弥陀は法華経の座に来りて舌をば出だし給はざりけるか、観音勢至は法華経の座にはなかりけるか、此れをもつてをもへ慈覚大師の御夢はわざわひなり。

問うて云く弘法大師の心経の秘鍵に云く「時に弘仁九年の春天下大疫す、爰に皇帝自ら黄金を筆端に染め紺紙を爪掌に握りて般若心経一巻を書写し奉り給う予講読の撰に範りて経旨の宗を綴る未だ結願の詞を吐かざるに蘇生の族途に彳ずむ、夜変じて而も日光赫赫たり是れ愚身の戒徳に非ず金輪御信力の所為なり、但し神舎に詣でん輩は此の秘鍵を誦し奉れ、昔予鷲峰説法の筵に陪して親り其の深文を聞きたてまつる豈其の義に達せざらんや」等云云、又孔雀経の音義に云く「弘法大師帰朝の後真言宗を立てんと欲し諸宗を朝廷に群集す即身成仏の義を疑う、大師智拳の印を結びて南方に向うに面門俄に開いて金色の毘盧遮那と成り即便本体に還帰す、入我・我入の事・即身頓証の疑い此の日釈然たり、然るに真言・瑜伽の宗・秘密曼荼羅の道彼の時より建立しぬ」、又云く「此の時に諸宗の学徒大師に帰して始めて真言を得て請益し習学す三論の道昌・法相の源仁・華厳の道雄・天台の円澄等皆其の類なり」、弘法大師の伝に云く「帰朝泛舟の日発願して云く我が所学の教法若し感応の地有らば此三鈷其の処に到るべし仍て日本の方に向て三鈷を抛げ上ぐ遙かに飛んで雲に入る十月に帰朝す」云云、又云く「高野山の下に入定の所を占む乃至彼の海上の三鈷今新たに此に在り」等云云、此の大師の徳無量なり其の両三を示す・かくのごとくの大徳ありいかんが此の人を信ぜずして・かへりて阿鼻地獄に堕といはんや、答えて云く


予も仰いで信じ奉る事かくのごとし但古の人人も不可思議の徳ありしかども仏法の邪正は其にはよらず、外道が或は恒河を耳に十二年留め或は大海をすひほし或は日月を手ににぎり或は釈子を牛羊となしなんど・せしかども・いよいよ大慢を・をこして生死の業とこそなりしか、此れをば天台云く「名利を邀め見愛を増す」とこそ釈せられて候へ、光宅が忽に雨を下し須臾に花をさかせしをも妙楽は「感応此の如くなれども猶理に称わず」とこそかかれて候へ、されば天台大師の法華経をよみて「須臾に甘雨を下せ」伝教大師の三日が内に甘露の雨をふらしておはせしも其をもつて仏意に叶うとは・をほせられず、弘法大師いかなる徳ましますとも法華経を戯論の法と定め釈迦仏を無明の辺域とかかせ給へる御ふでは智慧かしこからん人は用ゆべからず、いかにいわうや上にあげられて候徳どもは不審ある事なり、「弘仁九年の春・天下大疫」等云云、春は九十日・何の月・何の日ぞ是一、又弘仁九年には大疫ありけるか是二、又「夜変じて日光赫赫たり」と云云、此の事第一の大事なり弘仁九年は嵯峨天皇の御宇なり左史右史の記に載せたりや是三、設い載せたりとも信じがたき事なり成劫二十劫・住劫九劫・已上二十九劫が間に・いまだ無き天変なり、夜中に日輪の出現せる事如何・又如来一代の聖教にもみへず未来に夜中に日輪出ずべしとは三皇五帝の三墳・五典にも載せず仏経のごときんば壊劫にこそ二の日・三の日・乃至七の日は出ずべしとは見えたれども・かれは昼のことぞかし・夜日出現せば東西北の三方は如何、設い内外の典に記せずとも現に弘仁九年の春・何れの月・何れの日・何れの夜の何れの時に日出ずるという・公家・諸家・叡山等の日記あるならば・すこし信ずるへんもや、次ぎ下に「昔予鷲峰説法の筵に陪して親り其の深文を聞く」等云云、此の筆を人に信ぜさせしめんがためにかまへ出だす大妄語か、されば霊山にして法華は戯論・大日経は真実と仏の説き給けるを阿難・文殊が悞りて妙法華経をば真実とかけるか・いかん、いうにかいなき婬女・破戒の法師等が歌をよみて雨す雨を三七日まで下さざりし人は・かかる徳あるべしや是四、孔雀経の音義に云く「大師智拳の印を結