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日蓮大聖人・池田大作

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乙御前御消息  (2/4) 軍には大将軍を魂とす
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衆となりぬ、竜女と申せし蛇体の女人は法華経を文珠師利菩薩説き給ひしかば仏になりぬ、其の上仏説には悪世末法と時をささせ給いて末代の男女に・をくらせ給いぬ、此れこそ唐船の如くにて候・一乗経にてはおはしませ、されば一切経は外典に対すれば石と金との如し、又一切の大乗経・所謂華厳経・大日経・観経・阿弥陀経・般若経等の諸の経経を法華経に対すれば螢火と日月と華山と蟻塚との如し、経に勝劣あるのみならず大日経の一切の真言師と法華経の行者とを合すれば水に火をあはせ露と風とを合するが如し、犬は師子をほうれば腸くさる・修羅は日輪を射奉れば頭七分に破る、一切の真言師は犬と修羅との如く・法華経の行者は日輪と師子との如し、冰は日輪の出でざる時は堅き事金の如し、火は水のなき時はあつき事・鉄をやけるが如し、然れども夏の日にあひぬれば堅冰のとけやすさ・あつき火の水にあひて・きへやすさ、一切の真言師は気色のたうとげさ・智慧のかしこげさ・日輪をみざる者の堅き冰をたのみ・水をみざる者の火をたのめるが如し。

当世の人人の蒙古国をみざりし時のおごりは御覧ありしやうに・かぎりもなかりしぞかし、去年の十月よりは・一人も・おごる者なし、きこしめしし・やうに日蓮一人計りこそ申せしが・よせてだに・きたる程ならば面をあはする人も・あるべからず、但さるの犬ををそれ・かゑるの蛇を・をそるるが如くなるべし、是れ偏に釈伽仏の御使いたる法華経の行者を・一切の真言師・念仏者・律僧等に・にくませて我と損じ、ことさらに天のにくまれを・かほれる国なる故に皆人・臆病になれるなり、譬えば火が水をおそれ・木が金をおぢ・雉が鷹をみて魂を失ひ・ねずみが貓に・せめらるるが如し、一人も・たすかる者あるべからず、其の時は・いかがせさせ給うべき、軍には大将軍を魂とす大将軍をくしぬれば歩兵臆病なり。

女人は夫を魂とす・夫なければ女人魂なし、此の世に夫ある女人すら世の中渡りがたふみえて候に、魂もなくして世を渡らせ給うが・魂ある女人にもすぐれて心中かひがひしくおはする上・神にも心を入れ仏をもあがめさせ給


へば人に勝れておはする女人なり、鎌倉に候いし時は念仏者等はさてをき候いぬ、法華経を信ずる人人は志あるも・なきも知られ候はざりしかども・御勘気を・かほりて佐渡の島まで流されしかば問い訪う人もなかりしに・女人の御身として・かたがた御志ありし上・我と来り給いし事うつつならざる不思議なり、其の上いまのまうで又申すばかりなし、定めて神も・まほらせ給ひ十羅刹も御あはれみましますらん、法華経は女人の御ためには暗きに・ともしび・海に船・おそろしき所には・まほりと・なるべきよし・ちかはせ給へり、羅什三蔵は法華経を渡し給いしかば毘沙門天王は無量の兵士をして葱嶺を送りしなり、道昭法師・野中にして法華経をよみしかば無量の虎来りて守護しき、此れも又彼には・かはるべからず、地には三十六祇・天には二十八宿まほらせ給う上・人には必ず二つの天・影の如くにそひて候、所謂一をば同生天と云い二をば同名天と申す左右の肩にそひて人を守護すれば、失なき者をば天もあやまつ事なし・況や善人におひてをや、されば妙楽大師のたまはく「必ず心の固きに仮りて神の守り則ち強し」等云云、人の心かたければ神のまほり必ずつよしとこそ候へ、是は御ために申すぞ古への御心ざし申す計りなし・其よりも今一重強盛に御志あるべし、其の時は弥弥十羅刹女の御まほりも・つよかるべしと・おぼすべし、例には他を引くべからず、日蓮をば日本国の上一人より下万民に至るまで一人もなくあやまたんと・せしかども・今までかうて候事は一人なれども心のつよき故なるべしと・おぼすべし、一つ船に乗りぬれば船頭のはかり事わるければ一同に船中の諸人損じ・又身つよき人も心かひなければ多くの能も無用なり、日本国には・かしこき人人はあるらめども大将のはかり事つたなければ・かひなし、壹岐・対馬・九ケ国のつはもの並に男女多く或はころされ或はとらはれ或は海に入り或はがけよりおちしもの・いくせんまんと云う事なし、又今度よせなば先には・にるべくも・あるべからず、京と鎌倉とは但壹岐・対馬の如くなるべし、前にしたくして・いづくへも・にげさせ給へ、其の時は昔し日蓮を見じ聞かじと申せし人人も掌をあはせ法華経を信ずべし、念仏者・禅宗までも


南無妙法蓮華経と申すべし、抑法華経をよくよく信したらん男女をば肩に・になひ背に・おうべきよし経文に見えて候上・くまらゑん三蔵と申せし人をば木像の釈迦をわせ給いて候いしぞかし、日蓮が頭には大覚世尊かはらせ給いぬ昔と今と一同なり、各各は日蓮が檀那なり争か仏にならせ給はざるべき。

いかなる男をせさせ給うとも法華経のかたきならば随ひ給うべからず、いよいよ強盛の御志あるべし、冰は水より出でたれども水よりもすさまじ、青き事は藍より出でたれども・かさぬれば藍よりも色まさる、同じ法華経にては・をはすれども志をかさぬれば・他人よりも色まさり利生もあるべきなり、木は火にやかるれども栴檀の木は、やけず、火は水にけさるれども仏の涅槃の火はきえず、華は風にちれども浄居の華は・しぼまず・水は大旱魃に失れども黄河に入りぬれば失せず、檀弥羅王と申せし悪王は月氏の僧の頸を切りしに・とがなかりしかども・師子尊者の頸を切りし時・刀と手と共に一時に落ちにき、弗沙密多羅王は鶏頭摩寺を焼し時・十二神の棒にかふべわられにき、今日本国の人人は法華経の・かたきと・なりて身を亡ぼし国を亡ぼしぬるなり、かう申せば日蓮が自讚なりと心えぬ人は申すなり、さには・あらず是を云わずば法華経の行者にはあらず、又云う事の後にあへばこそ人も信ずれ、かうただ・かきをきなばこそ未来の人は智ありけりとは・しり候はんずれ、又身軽法重・死身弘法とのべて候ば身は軽ければ人は打ちはり悪むとも法は重ければ必ず弘まるべし、法華経弘まるならば死かばね還つて重くなるべし、かばね重くなるならば此のかばねは利生あるべし、利生あるならば今の八幡大菩薩と・いははるるやうに・いはうべし、其の時は日蓮を供養せる男女は武内・若宮なんどのやうにあがめらるべしと・おぼしめせ、抑一人の盲目をあけて候はん功徳すら申すばかりなし、況や日本国の一切衆生の眼をあけて候はん功徳をや、何に況や一閻浮提・四天下の人の眼のしゐたるを・あけて候はんをや、法華経の第四に云く「仏滅度の後に能く其の義を解せんは是諸の天人世間之眼なり」等云云、法華経を持つ人は一切世間の天人の眼なりと説かれて