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日蓮大聖人・池田大作

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道場神守護事 
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道場神守護事

                    建治二年十二月 五十五歳御作

鵞目五貫文慥に送り給び候い了ぬ、且つ知食すが如く此の所は里中を離れたる深山なり衣食乏少の間読経の声続き難く談義の勤め廃しつ可し、此の託宣は十羅刹の御計にて檀那の功を致さしむるか、止観の第八に云く「帝釈堂の小鬼敬い避くるが如し道場の神大なれば妄りに侵嬈すること無し、又城の主剛ければ守る者も強し城の主恇れば守る者忙る、心は是れ身の主なり同名同生の天是れ能く人を守護す心固ければ則ち強し身の神尚爾なり況や道場の神をや」弘決の第八に云く「常に人を護ると雖も必ず心の固きに仮りて神の守り則ち強し」又云く「身の両肩の神尚常に人を護る況や道場の神をや」云云、人所生の時より二神守護す所謂同生天同名天是を倶生神と云う華厳経の文なり、文句の四に云く「賊南無仏と称して尚天頭を得たり況や賢者称せば十方の尊神敢て当らざらんや但精進せよ懈怠すること勿れ」等云云、釈の意は月氏天を崇めて仏を用いざる国あり而るに寺を造り第六天の魔王を主とす頭は金を以てす大賊年来之を盗まんとして得ず有時仏前に詣で物を盗んで法を聴く、仏説いて云く南無とは驚覚の義也盗人之を聞いて南無仏と称して天頭を得たり、之を糾明する処盗人上の如く之を申す一国皆天を捨てて仏に帰せり云云、彼を以て之を推するに設い科有る者も三宝を信ぜば大難を脱れんか、而るに今示し給える託宣の状は兼て之を知る之を案ずるに難を郤て福の来る先兆ならんのみ、妙法蓮華経の妙の一字は竜樹菩薩の大論に釈して云く「能く毒を変じて薬と為す」と云云、天台大師の云く「今経に記を得る即ち毒を変じて薬と為すなり」と云云、災来るとも変じて幸と為らん何に況や十羅刹之を兼るをや、薪火を熾にし風求羅を益すとは是なり、言は紙上に尽し難し心を以て之を量れ、恐恐謹言。

  十二月十三日            日蓮花押

   御返事


常忍抄

                    建治三年十月 五十六歳御作

御文粗拝見仕り候い了んぬ。御状に云く常忍の云く記の九に云く「権を禀けて界を出づるを名けて虚出と為す」云云、了性房云く全く以て其の釈無し云云、記の九に云く寿量品の疏「無有虚出より昔虚為実故に至るまでは為の字去声権を禀けて界を出づるを名けて虚出と為す三乗は皆三界を出でずと云うこと無し人天は三途を出でんが為ならずと云うこと無し並に名けて虚と為す」云云、文句の九に云く「虚より出でて而も実に入らざる者有ること無し、故に知んぬ昔の虚は去声実の為の故なり」と云云、寿量品に云く「諸の善男子・如来諸の衆生小法を楽う徳薄垢重の者を見て乃至以諸衆生乃至未曾暫廃」云云、此の経の文を承けて、天台・妙楽は釈せしなり、此の経文は初成道の華厳の別円より乃至法華経の迹門十四品を或は小法と云い或は徳薄垢重・或は虚出等と説ける経文なり、若し然らば華厳経の華厳宗・深密経の法相宗・般若経の三論宗・大日経の真言宗・観経の浄土宗・楞伽経の禅宗等の諸経の諸宗は依経の如く其の経を読誦すとも三界を出でず三途を出でざる者なり何に況や或は彼を実と称し或は勝ぐる等云云、此の人人・天に向つて唾を吐き地を爴んで忿を為す者か。

此の法門に於て如来滅後・月氏一千五百余年・付法蔵の二十四人・竜樹・天親等知つて未だ此れを顕さず、漢土一千余年の余人も未だ之を知らず但天台・妙楽等粗之を演ぶ、然りと雖も未だ其の実義を顕さざるか、伝教大師


以て是くの如し、今日蓮粗之を勘うるに法華経の此の文を重ねて涅槃経に演べて云く「若し三法に於て異の想を修する者は当に知るべし是の輩は清浄の三帰則ち依処無く所有の禁戒皆具足せず終に声聞・縁覚・菩薩の果を証することを得ず」等云云、此の経文は正しく法華経の寿量品を顕説せるなり寿量品は木に譬え爾前・迹門をば影に譬うる文なり、経文に又之有り、五時・八教・当分・跨節・大小の益は影の如し本門の法門は木の如し云云、又寿量品已前の在世の益は闇中の木の影なり過去に寿量品を聞きし者の事なり等云云、又不信は謗法に非ずと申す事、又云く不信の者地獄に堕ちずとの事、五の巻に云く「疑を生じて信ぜざらん者は則ち当に悪道に堕つべし」云云。

総じて御心へ候へ法華経と爾前と引き向えて勝劣・浅深を判ずるに当分・跨節の事に三つの様有り日蓮が法門は第三の法門なり、世間に粗夢の如く一二をば申せども第三をば申さず候、第三の法門は天台・妙楽・伝教も粗之を示せども未だ事了えず所詮末法の今に譲り与えしなり、五五百歳は是なり、但し此の法門の御論談は余は承らず候・彼は広学多聞の者なりはばかり・はばかり・みた・みたと候いしかば此の方のまけなんども申しつけられなば・いかんがし候べき、但し彼の法師等が彼の釈を知り候はぬは・さてをき候いぬ、六十巻になしなんど申すは天のせめなり謗法の科の法華経の御使に値うて顕れ候なり、又此の沙汰の事を定めて・ゆへありて出来せり・かしまの大田次郎兵衛・大進房・又本院主もいかにとや申すぞ・よくよくきかせ給い候へ、此れ等は経文に子細ある事なり、法華経の行者をば第六天の魔王の必ず障うべきにて候、十境の中の魔境此れなり魔の習いは善を障えて悪を造らしむるをば悦ぶ事に候、強いて悪を造らざる者をば力及ばずして善を造らしむ又二乗の行をなす物をば・あながちに怨をなして善をすすむるなり、又菩薩の行をなす物をば遮つて二乗の行をすすむ是後に純円の行を一向になす者をば兼別等に堕すなり止観の八等を御らむあるべし。