Nichiren・Ikeda

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日蓮大聖人・池田大作

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薬王品得意抄  (4/5) 法華経は宝の山なり人は富人なり
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なり、生死の此岸より生死の彼岸には付くと雖も生死の大海を渡り極楽の彼岸にはとつきがたし、例せば世間の小船等が筑紫より坂東に至り鎌倉よりいの嶋なんどへとつけども唐土へ至らず唐船は必ず日本国より震旦国に至るに障り無きなり又云く「貧きに宝を得たるが如し」等云云、爾前の国は貧国なり爾前の人は餓鬼なり法華経は宝の山なり人は富人なり

問うて云く爾前は貧国といふ経文如何答えて云く授記品に云く「飢えたる国より来つて忽ちに大王の膳に遇へるが如く」等云云、女人の往生成仏の段は経文に云く「若し如来の滅後・後の五百歳の中に若し女人有つて是の経典を聞いて説の如く修行せば此に於て命終して即ち安楽世界・阿弥陀仏の菩薩・大衆に囲遶せられて住する処に往いて蓮華の中宝座の上に生じ」等云云。

問うて曰く此の経・此の品に殊に女人の往生を説く何の故か有るや、答えて曰く仏意測り難し此の義決し難きか但し一の料簡を加えば女人は衆罪の根本破国の源なり、故に内典・外典に多く之を禁しむ其の中に外典を以て之を論ずれば三従あり三従と申すは三したがうと云ふなり、一には幼にしては父母に従う嫁して夫に従う老いて子に従う此の三障有りて世間自在ならず、内典を以て之を論ずれば五障有り五障とは一には六道輪回の間男子の如く大梵天王と作らず二には帝釈と作らず三には魔王と作らず四には転輪聖王と作らず五には常に六道に留まりて三界を出でて仏に成らず超日月三昧経の文なり、銀色女経に云く「三世の諸仏の眼は大地に堕落すとも法界の諸の女人は永く成仏の期無し」等云云、但し凡夫すら賢王・聖人は妄語せずはんよきといゐし者はけいかに頸をあたいきさつと申せし人は徐君が塚に剣をかけたりきこれ約束を違えず妄語無き故なり何に況や声聞・菩薩・仏をや、仏は昔凡夫にてましましし時小乗経を習い給いし時五戒を受け始め給いき五戒の中の


第四の不妄語の戒を固く持ち給いき財を奪われ命をほろぼされし時も此の戒をやぶらず大乗経を習い給いし時又十重禁戒を持ち其の十重禁戒の中の第四の不妄語戒を持ち給いき、此の戒を堅く持ちて無量劫之を破りたまわず終に此の戒力に依て仏身を成じ三十二相の中に広長舌相を得たまえり、此の舌うすくひろくながくして或は面にををい或は髪際にいたり或は梵天にいたる舌の上に五の画あり印文のごとし其の舌の色は赤銅のごとし舌の下に二の珠あり甘露を涌出す此れ不妄語戒の徳の至す所なり、仏此の舌を以て三世の諸仏の御眼は大地に落つとも法界の女人は仏になるべからずと説かれしかば一切の女人は何なる世にも仏には成らせ給うまじきとこそ覚えて候へ、さるにては女人の御身も受けさせ給いては設ひ后三公の位にそなはりても何かはすべき善根・仏事をなしてもよしなしとこそ覚え候へ、而るを此の法華経の薬王品に女人の往生をゆるされ候ぬる事又不思議に候、彼の経の妄語か此の経の妄語かいかにも一方は妄語たるべきか、若し又一方妄語ならば一仏に二言あり信じ難し但し無量義経の四十余年には未だ真実を顕さず涅槃経の如来には虚妄の言無しと雖も若し衆生虚妄の説に因ると知しめすの文を以て之を思えば仏は女人は往生成仏すべからずと説かせ給いけるは妄語と聞えたり、妙法華経の文に世尊の法は久くして後に要ず当に真実を説くべし妙法華経乃至皆是真実と申す文を以て之を思うに女人の往生成仏決定と説かるる法華経の文は実語不妄語戒と見えたり、世間の賢人も但一人ある子が不思議なる時或は失ある時は永く子為るべからざるの理・起請を書き或は誓言を立ると雖も命終の時に臨めば之を許す、然りと雖も賢人に非ずと云わず又妄語せる者とも云わず仏も亦是くの如し、爾前四十余年が間は菩薩の得道凡夫の得道・善人・男子等の得道をば許すやうなれども、二乗・悪人・女人なんどの得道此れをば許さず或は又許すににたる事もあり、いまだ定めがたかりしを仏の説教・四十二年すでに過ぎて八年が間・摩謁提国王舎城・耆闍崛山と申す山にして法華経を説かせ給うとおぼせし時先づ無量義経と申す経を説かせ給ふ無量義経の文に云く四十余年云云。

  月 日                       日蓮花押


上野殿後家尼御返事

                    文永十一年七月 五十三歳御作

御供養の物種種給畢んぬ、抑も上野殿死去の後は・をとづれ冥途より候やらん・きかまほしくをぼへ候、ただしあるべしとも・をぼへず、もし夢にあらずんば・すがたをみる事よもあらじ、まぼろしにあらずんば・みみえ給う事いかが候はん、さだめて霊山浄土にてさばの事をば・ちうやにきき御覧じ候らむ、妻子等は肉眼なればみさせ・きかせ給う事なし・ついには一所とをぼしめせ、生生世世の間ちぎりし夫は大海のいさごのかずよりも・ををくこそをはしまし候いけん、今度のちぎりこそ・まことのちぎりのをとこよ、そのゆへは・をとこのすすめによりて法華経の行者とならせ給へば仏とをがませ給うべし、いきてをはしき時は生の仏・今は死の仏・生死ともに仏なり、即身成仏と申す大事の法門これなり、法華経の第四に云く、「若し能く持つこと有れば即ち仏身を持つなり」云云。

夫れ浄土と云うも地獄と云うも外には候はず・ただ我等がむねの間にあり、これをさとるを仏といふ・これにまよふを凡夫と云う、これをさとるは法華経なり、もししからば法華経をたもちたてまつるものは地獄即寂光とさとり候ぞ、たとひ無量億歳のあひだ権教を修行すとも、法華経をはなるるならば・ただいつも地獄なるべし、此の事日蓮が申すにはあらず・釈迦仏・多宝仏・十方分身の諸仏の定めをき給いしなり、されば権教を修行する人は火にやくるもの又火の中へいり、水にしづむものなをふちのそこへ入るがごとし、法華経をたもたざる人は火と水との中にいたるがごとし、法華経誹謗の悪知識たる法然・弘法等をたのみ・阿弥陀経・大日経等を信じ給うは・なを火より火の中・水より水のそこへ入るがごとし、いかでか苦患をまぬかるべきや、等活・黒繩・無間地獄の火