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日蓮大聖人・池田大作

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三世諸仏総勘文教相廃立  (5/18) 一切の法は皆是仏法なり
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是と云う、此の三如是の本覚の如来は十方法界を身体と為し十方法界を心性と為し十方法界を相好と為す是の故に我が身は本覚三身如来の身体なり、法界に周徧して一仏の徳用なれば一切の法は皆是仏法なりと説き給いし時其の座席に列りし諸の四衆・八部・畜生・外道等一人も漏れず皆悉く妄想の僻目・僻思・立所に散止して本覚の寤に還つて皆仏道を成ず、仏は寤の人の如く衆生は夢見る人の如し故に生死の虚夢を醒して本覚の寤に還るを即身成仏とも平等大慧とも無分別法とも皆成仏道とも云う只一つの法門なり、十方の仏土は区に分れたりと雖も通じて法は一乗なり方便無きが故に無分別法なり、十界の衆生は品品に異りと雖も実相の理は一なるが故に無分別なり百界千如・三千世間の法門殊なりと雖も十界互具するが故に無分別なり、夢と寤と虚と実と各別異なりと雖も一心の中の法なるが故に無分別なり、過去と未来と現在とは三なりと雖も一念の心中の理なれば無分別なり、一切経の語は夢中の語とは譬えば扇と樹との如し法華経の寤の心を顕す言とは譬えば月と風との如し、故に本覚の寤の心の月輪の光は無明の闇を照し実相般若の智慧の風は妄想の塵を払う故に夢の語の扇と樹とを以て寤の心の月と風とを知らしむ是の故に夢の余波を散じて寤の本心に帰せしむるなり、故に止観に云く「月・重山に隠るれば扇を挙げて之に類し風大虚に息みぬれば樹を動かして之を訓ゆるが如し」文、弘決に云く「真常性の月煩悩の山に隠る煩悩一に非ず故に名けて重と為す円音教の風は化を息めて寂に帰す寂理無礙なること猶大虚の如し四依の弘教は扇と樹との如し乃至月と風とを知らしむるなり已上、夢中の煩悩の雲・重畳せること山の如く其の数八万四千の塵労にて心性本覚の月輪を隠す扇と樹との如くなる経論の文字言語の教を以て月と風との如くなる本覚の理を覚知せしむる聖教なり故に文と語とは扇と樹との如し」文、上釈は一往の釈とて実義に非ざるなり月の如くなる妙法の心性の月輪と風の如くなる我が心の般若の慧解とを訓え知らしむるを妙法蓮華経と名く、故に釈籤に云く「声色の近名を尋ねて無相の極理に至る」と已上、声色の近名とは扇と樹との如くなる夢中の一切経


論の言説なり無相の極理とは月と風との如くなる寤の我が身の心性の寂光の極楽なり、此の極楽とは十方法界の正報の有情と十方法界の依報の国土と和合して一体三身即一なり、四土不二にして法身の一仏なり十界を身と為すは法身なり十界を心と為すは報身なり十界を形と為すは応身なり十界の外に仏無し仏の外に十界無くして依正不二なり身土不二なり一仏の身体なるを以て寂光土と云う是の故に無相の極理とは云うなり、生滅無常の相を離れたるが故に無相と云うなり法性の淵底・玄宗の極地なり故に極理と云う、此の無相の極理なる寂光の極楽は一切有情の心性の中に有つて清浄無漏なり之を名けて妙法の心蓮台とは云うなり是の故に心外無別法と云う此れを一切法は皆是仏法なりと通達解了すとは云うなり、生と死と二つの理は生死の夢の理なり妄想なり顛倒なり本覚の寤を以て我が心性を糾せば生ず可き始めも無きが故に死す可き終りも無し既に生死を離れたる心法に非ずや、劫火にも焼けず水災にも朽ちず剣刀にも切られず弓箭にも射られず芥子の中に入るれども芥子も広からず心法も縮まらず虚空の中に満つれども虚空も広からず心法も狭からず善に背くを悪と云い悪に背くを善と云う、故に心の外に善無く悪無し此の善と悪とを離るるを無記と云うなり、善悪無記・此の外には心無く心の外には法無きなり故に善悪も浄穢も凡夫・聖人も天地も大小も東西も南北も四維も上下も言語道断し心行所滅す心に分別して思い言い顕す言語なれば心の外には分別も無分別も無し、言と云うは心の思いを響かして声を顕すを云うなり凡夫は我が心に迷うて知らず覚らざるなり、仏は之を悟り顕わして神通と名くるなり神通とは神の一切の法に通じて礙無きなり、此の自在の神通は一切の有情の心にて有るなり故に狐狸も分分に通を現ずること皆心の神の分分の悟なり此の心の一法より国土世間も出来する事なり、一代聖教とは此の事を説きたるなり此れを八万四千の法蔵とは云うなり是れ皆悉く一人の身中の法門にて有るなり、然れば八万四千の法蔵は我身一人の日記文書なり、此の八万法蔵を我が心中に孕み持ち懐き持ちたり我が身中の心を以て仏と法と浄土とを我が身より外に思い願い


求むるを迷いとは云うなり此の心が善悪の縁に値うて善悪の法をば造り出せるなり、華厳経に云く「心は工なる画師の種種の五陰を造るが如く一切世間の中に法として造らざること無し心の如く仏も亦爾なり仏の如く衆生も然なり三界唯一心なり心の外に別の法無し心仏及び衆生・是の三差別無し」已上、無量義経に云く「無相・不相の一法より無量義を出生す」已上、無相・不相の一法とは一切衆生の一念の心是なり、文句に釈して云く「生滅無常の相無きが故に無相と云うなり二乗の有余・無余の二つの涅槃の相を離るが故に不相と云うなり」云云、心の不思議を以て経論の詮要と為すなり、此の心を悟り知るを名けて如来と云う之を悟り知つて後は十界は我が身なり我が心なり我が形なり本覚の如来は我が身心なるが故なり之を知らざる時を名けて無明と為す無明は明かなること無しと読むなり、我が心の有様を明かに覚らざるなり、之を悟り知る時を名けて法性と云う、故に無明と法性とは一心の異名なり、名と言とは二なりと雖も心は只一つ心なり斯れに由つて無明をば断ず可からざるなり夢の心の無明なるを断ぜば寤の心を失う可きが故に総じて円教の意は一毫の惑をも断ぜず故に一切の法は皆是れ仏法なりと云うなり、法華経に云く「如是相一切衆生の相好本覚の応身如来如是性一切衆生の心性本覚の報身如来如是体一切衆生の身体本覚の法身如来」此の三如是より後の七如是・出生して合して十如是と成れるなり、此の十如是は十法界なり、此の十法界は一人の心より出で八万四千の法門と成るなり、一人を手本として一切衆生平等なること是くの如し、三世の諸仏の総勘文にして御判慥かに印たる正本の文書なり仏の御判とは実相の一印なり印とは判の異名なり、余の一切の経には実相の印無ければ正本の文書に非ず全く実の仏無し実の仏無きが故に夢中の文書なり浄土に無きが故なり、十法界は十なれども十如是は一なり譬えば水中の月は無量なりと雖も虚空の月は一なるが如し、九法界の十如是は夢中の十如是なるが故に水中の月の如し仏法界の十如是は本覚の寤の十如是なれば虚空の月の如し、是の故に仏界の一つの十如是顕れぬれば九法界の十如是の水中の月の如きも一も闕減無く同時に皆顕れて体と用と一具にして一体の仏と