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日蓮大聖人・池田大作

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弥源太殿御返事  (1/2) 日蓮は日本第一の僻人なり
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の要文を大帖にて候と・真言の表の・せうそくの裏にさど房のかきて候と・そうじて・せせと・かきつけて候ものの・かろき・とりてたび候へ、紙なくして一紙に多く要事を申すなり。

  七月二十一日                    日蓮花押

   辧殿

弥源太殿御返事

日蓮は日本第一の僻人なり、其の故は皆人の父母よりも・たかく主君よりも大事に・おもはれ候ところの阿弥陀仏・大日如来・薬師等を御信用ある故に、三災・七難・先代にこえ天変・地夭等・昔にも・すぎたりと申す故に・結句は今生には身をほろぼし国をそこない・後生には大阿鼻地獄に堕ち給うべしと、一日・片時も・たゆむ事なく・よばわりし故に・かかる大難にあへり、譬えば夏の虫の火にとびくばりねずみが・ねこのまへに出でたるが如し、是あに我が身を知つて用心せざる畜生の如くにあらずや、身命を失ふ事・併ら心より出ずれば僻人なり、但し石は玉をふくむ故にくだかれ・鹿は皮肉の故に・殺され・魚はあぢはひある故に・とらる・すいは羽ある故にやぶらる・女人は・みめかたちよければ必ずねたまる・此の意なるべきか、日蓮は法華経の行者なる故に三種の強敵あつて種種の大難にあへり然るにかかる者の弟子檀那とならせ給う事不思議なり定めて子細候らん相構えて能能御信心候て霊山浄土へまいり給へ。

又御祈祷のために御太刀同く刀あはせて二つ送り給はて候、此の太刀はしかるべきかぢ・作り候かと覚へ候、あまくに或は鬼きり或はやつるぎ・異朝には・かむしやうばくやが剣に争でか・ことなるべきや・此れを法華経にま


いらせ給う、殿の御もちの時は悪の刀・今仏前へまいりぬれば善の刀なるべし、譬えば鬼の道心をおこしたらんが如し、あら不思議や不思議や、後生には此の刀を・つえとたのみ給うべし、法華経は三世の諸仏・発心のつえにて候ぞかし、但し日蓮をつえはしらとも・たのみ給うべし、けはしき山・あしき道・つえを・つきぬれば・たをれず、殊に手を・ひかれぬれば・まろぶ事なし、南無妙法蓮華経は死出の山にては・つえはしらとなり給へ、釈迦仏・多宝仏上行等の四菩薩は手を取り給うべし日蓮さきに立ち候はば御迎にまいり候事もやあらんずらん、又さきに行かせ給はば日蓮必ず閻魔法王にも委く申すべく候、此の事少しもそら事あるべからず、日蓮・法華経の文の如くならば通塞の案内者なり、只一心に信心おはして霊山を期し給へ、ぜにと云うものは用に・したがつて変ずるなり、法華経も亦復是くの如し、やみには燈となり・渡りには舟となり・或は水ともなり或は火ともなり給うなり、若し然らば法華経は現世安穏・後生善処の御経なり。

其上日蓮は日本国の中には安州のものなり総じて彼国は天照太神のすみそめ給いし国なりといへりかしこにして日本国をさぐり出し給ふあはの国御くりやなり・しかも此国の一切衆生の慈父悲母なりかかるいみじき国なれば定んで故ぞ候らんいかなる宿習にてや候らん日蓮又彼国に生れたり第一の果報なるなり此消息の詮にあらざれば委しくはかかず但おしはかり給うべし。

能く能く諸天にいのり申べし、信心にあかなくして所願を成就し給へ女房にも・よく・よく・かたらせ給へ、恐恐謹言。

  二月二十一日                    日蓮花押

   弥源太殿御返事


弥源太入道殿御返事

別の事候まじ憑み奉り候上は最後は・かうと思し食し候へ、河野辺の入道殿のこひしく候に・漸く後れ進らせて其のかたみと見まいらせ候はん、さるにても候へば如何が空しかるべきやさこそ覚え候へ。

但し当世は我も法華経をしりたりと人毎に申し候、時に法華経の行者はあまた候、但し法華経と申す経は転子病と申す病の様に候、転子と申すは親の様なる子は少く候へども此の病は必ず伝わり候なり、例せば犬の子は母の吠を伝へ貓の子は母の用を伝えて鼠を取る、日本国は六十六箇国・嶋二つ、其の中に仏の御寺は一万一千三十七所・其の内に僧尼或は三千・或は一万・或は一千一百・或は十人・或は一人候へども・其の源は弘法大師・慈覚大師・智証大師・此の三大師の御弟子にて候、山の座主・東寺・御室・七大寺の検校、園城寺の長吏・伊豆・箱根・日光・慈光等の寺寺の別当等も皆此の三大師の嫡嫡なり、此の人人は三大師の如く読むべし、其れ此の三大師・法華経と一切経との勝劣を読み候しには・弘法大師は法華経最第三と・慈覚・智証は法華経最第二・或は戯論なんどこそ読み候いしか今又是くの如し。

但し日蓮が眼には僻目にてや候らん、法華経最第一・皆是真実と釈迦仏・多宝仏十方の諸仏は説いて証明せさせ給へり・此の三大師には水火の相違にて候、其の末を受くる人人・彼の跡を継で彼の所領の田畠を我が物とせさせ給いぬれば・何に諍はせ給うとも三大師の僻事ならば此の科遁れがたくやおはすらんと見え候へども・日蓮は怯弱の者にて候へば・かく申す事をも人・御用いなし、されば今日本国の人人の我も我も経を読むといへども・申す事用ゆべしとも覚えず候。