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日蓮大聖人・池田大作

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法蓮抄  (7/15) 法華経と申すは一切衆生を仏になす秘術ましま…
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等云云、夫れ教主釈尊をば大覚世尊と号したてまつる、世尊と申す尊の一字を高と申す高と申す一字は又孝と訓ずるなり、一切の孝養の人の中に第一の孝養の人なれば世尊と号し奉る、釈迦如来の御身は金色にして三十二相を備へ給ふ、彼の三十二相の中に無見頂相と申すは仏は丈六の御身なれども竹杖外道も其の御長をはからず梵天も其の頂を見ず故に無見頂相と申す是れ孝養第一の大人なればかかる相を備へまします、孝経と申すに二あり一には外典の孔子と申せし聖人の書に孝経あり、二には内典今の法華経是なり、内外異なれども其意は是れ同じ、釈尊・塵点劫の間・修行して仏にならんとはげみしは何事ぞ孝養の事なり、然るに六道四生の一切衆生は皆父母なり孝養おへざりしかば仏にならせ給はず、今法華経と申すは一切衆生を仏になす秘術まします御経なり、所謂地獄の一人・餓鬼の一人・乃至九界の一人を仏になせば一切衆生・皆仏になるべきことはり顕る、譬えば竹の節を一つ破ぬれば余の節亦破るるが如し、囲碁と申すあそびにしちようと云う事あり一の石死しぬれば多の石死ぬ、法華経も又此くの如し金と申すものは木草を失う用を備へ水は一切の火をけす徳あり、法華経も又一切衆生を仏になす用おはします、六道四生の衆生に男女あり此の男女は皆我等が先生の父母なり、一人ももれば仏になるべからず故に二乗をば不知恩の者と定めて永不成仏と説かせ給う孝養の心あまねからざる故なり、仏は法華経をさとらせ給いて六道・四生の父母・孝養の功徳を身に備へ給へり、此の仏の御功徳をば法華経を信ずる人にゆづり給う、例せば悲母の食う物の乳となりて赤子を養うが如し、「今此の三界は・皆是れ我が有なり・其の中の衆生は・悉く是れ吾が子なり」等云云、教主釈尊は此の功徳を法華経の文字となして一切衆生の口になめさせ給う、赤子の水火をわきまへず毒薬を知らざれども乳を含めば身命をつぐが如し、阿含経を習う事は舎利弗等の如くならざれども華厳経をさとる事解脱月等の如くならざれども乃至一代聖教を胸に浮べたる事文殊の如くならざれども一字一句をも之を聞きし人仏にならざるはなし、彼の五千の上慢は聞きてさとらず不信の人なり、然れども謗ぜざりしかば三月を


経て仏になりにき「若しは信じ若しは信ぜざれば即ち不動国に生ぜん」と涅槃経に説かるるは此の人の事なり、法華経は不信の者すら謗ぜざれば聞きつるが不思議にて仏になるなり、所謂七歩蛇に食れたる人一歩乃至七歩をすぎず毒の用の不思議にて八歩をすごさぬなり、又胎内の子の七日の如し必ず七日の内に転じて余の形となる八日をすごさず、今の法蓮上人も又此くの如し教主釈尊の御功徳・御身に入りかはらせ給いぬ、法蓮上人の御身は過去聖霊の御容貌を残しおかれたるなり、たとへば種の苗となり華の菓となるが如し其華は落ちて菓はあり種はかくれて苗は現に見ゆ、法蓮上人の御功徳は過去聖霊の御財なり、松さかふれば柏よろこぶ芝かるれば蘭なく情なき草木すら此くの如し何に況や情あらんをや又父子の契をや。

彼の諷誦に云く「慈父閉眼の朝より第十三年の忌辰に至るまで釈迦如来の御前に於て自ら自我偈一巻を読誦し奉りて聖霊に回向す」等云云、当時日本国の人仏法を信じたるやうには見へて候へども古いまだ仏法のわたらざりし時は仏と申す事も法と申す事も知らず候しを守屋と上宮太子と合戦の後信ずる人もあり又信ぜざるもあり、漢土も此くの如し摩騰・漢土に入つて後・道士と諍論あり道士まけしかば始て信ずる人もありしかども不信の人多し、されば烏竜と申せし能書は手跡の上手なりしかば人之を用ゆ、然れども仏経に於てはいかなる依怙ありしかども書かず最後臨終の時・子息遺竜を召して云く汝我が家に生れて芸能をつぐ我が孝養には仏経を書くべからず殊に法華経を書く事なかれ、我が本師の老子は天尊なり天に二つの日なし而に彼の経に唯我一人と説くきくわい第一なり、若し遺言を違へて書く程ならば忽に悪霊となりて命を断つべしと云つて舌八つにさけて頭七分に破れ五根より血を吐いて死し畢んぬ、されども其の子善悪を弁へざれば我が父の謗法のゆへに悪相現じて阿鼻地獄に堕ちたりともしらず遺言にまかせて仏経を書く事なし況や口に誦する事あらんをや、かく過ぎ行く程に時の王を司馬氏と号し奉る御仏事のありしに書写の経あるべしとて漢土第一の能書を尋ねらるるに遺竜に定まりぬ、召し


て仰せ付けらるるに再三辞退申せしかば力及ばずして他筆にて一部の経を書かせられけるが、帝王心よからず尚遺竜を召して仰せに云く汝親の遺言とて朕が経を書かざる事其の謂無しと雖も且く之を免ず但題目計りは書くべしと三度勅定あり、遺竜猶辞退申す大王竜顔心よからずして云く天地尚王の進退なり、然らば汝が親は即ち我が家人にあらずや、私をもつて公事を軽んずる事あるべからず、題目計りは書くべし若し然らずんば、仏事の庭なりといへども速に汝が頭を刎ぬべしとありければ題目計り書けり、所謂妙法蓮華経巻第一・乃至巻第八等云云、其の暮に私宅に帰りて歎いて云く我親の遺言を背き王勅術なき故に仏経を書きて不孝の者となりぬ天神も地祗も定んで瞋り不孝の者とおぼすらんとて寝る、夜の夢の中に大光明出現せり朝日の照すかと思へば天人一人庭上に立ち給へり又無量の眷属あり、此の天人の頂上の虚空に仏・六十四仏まします、遺竜・合掌して問うて云く如何なる天人ぞや、答えて云く我は是れ汝が父の烏竜なり仏法を謗ぜし故に舌八つにさけ五根より血を出し頭七分に破れて無間地獄に堕ちぬ、彼の臨終の大苦をこそ堪忍すべしともおぼへざりしに無間の苦は尚百千億倍なり、人間にして鈍刀をもて爪をはなち鋸をもて頸をきられ炭火の上を歩ばせ棘にこめられなんどせし人の苦を此の苦にたとへば・かずならず、如何してか我が子に告げんと思いしかどもかなはず、臨終の時・汝を誡て仏経を書くことなかれと遺言せし事のくやしさ申すばかりなし、後悔先にたたず我が身を恨み舌をせめしかども・かひなかりしに昨日の朝より法華経の始の妙の一字・無間地獄のかなへの上に飛び来つて変じて金色の釈迦仏となる、此の仏三十二相を具し面貌満月の如し、大音声を出して説て云く「仮令法界に遍く善を断ちたる諸の衆生も一たび法華経を聞かば決定して菩提を成ぜん」云云、此の文字の中より大雨降りて無間地獄の炎をけす閻魔王は冠をかたぶけて敬ひ獄卒は杖をすてて立てり、一切の罪人はいかなる事ぞとあはてたり、又法の一字来れり前の如し又蓮・又華・又経・此くの如し六十四字来つて六十四仏となりぬ、無間地獄に仏・六十四体ましませば日月の六十四が天に出