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日蓮大聖人・池田大作

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四条金吾殿御返事  (4/5) 法華経を一字一句も唱え又人にも語り申さんも…
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御志にて・これまで御使を・つかはし御身には一期の大事たる悲母の御追善第三年の御供養を送りつかはされたる両三日は・うつつとも・おぼへず、彼の法勝寺の修行がいはをが嶋にて・としごろつかひける童にあひたりし心地なり、胡国の夷陽公といひしもの漢土にいけどられて北より南へ出けるに飛びまひける雁を見てなげきけんも・これには・しかじとおぼへたり。

但し法華経に云く「若し善男子善女人我が滅度の後に能く竊かに一人の為にも法華経の乃至一句を説かん、当に知るべし是の人は則ち如来の使如来の所遣として如来の事を行ずるなり」等云云、法華経を一字一句も唱え又人にも語り申さんものは教主釈尊の御使なり、然れば日蓮賤身なれども教主釈尊の勅宣を頂戴して此の国に来れり、此れを一言もそしらん人人は罪を無間に開き一字一句も供養せん人は無数の仏を供養するにも・すぎたりと見えたり。

教主釈尊は一代の教主・一切衆生の導師なり、八万法蔵は皆金言・十二部経は皆真実なり、無量億劫より以来持ち給いし不妄語戒の所詮は一切経是なり、いづれも疑うべきにあらず、但是は総相なり別してたづぬれば如来の金口より出来して小乗・大乗・顕密・権経・実経是あり、今この法華経は「正直捨方便等・乃至世尊法久後・要当説真実」と説き給う事なれば誰の人か疑うべきなれども多宝如来・証明を加へ諸仏・舌を梵天に付け給う、されば此の御経は一部なれども三部なり一句なれども三句なり一字なれども三字なり、此の法華経の一字の功徳は釈迦・多宝・十方の諸仏の御功徳を一字におさめ給う、たとへば如意宝珠の如し一珠も百珠も同じき事なり一珠も無量の宝を雨す百珠も又無尽の宝あり、たとへば百草を抹りて一丸乃至百丸となせり一丸も百丸も共に病を治する事これをなじ、譬へば大海の一渧も衆流を備へ一海も万流の味を・もてるが如し。

妙法蓮華経と申すは総名なり二十八品と申すは別名なり、月支と申すは天竺の総名なり別しては五天竺是なり、


日本と申すは総名なり別しては六十六州これあり、如意宝珠と申すは釈迦仏の御舎利なり竜王にこれを給いて頂上に頂戴して帝釈是を持ちて宝をふらす、仏の身骨の如意宝珠となれるは無量劫来持つ所の大戒・身に薫じて骨にそみ一切衆生をたすける珠となるなり、たとへば犬の牙の虎の骨にとく魚の骨の鸕の気に消ゆるが如し、乃至・師子の筋を琴の絃にかけて・これを弾けば余の一切の獣の筋の絃皆きらざるに・やぶる、仏の説法をば師子吼と申す乃至法華経は師子吼の第一なり。

仏には三十二相そなはり給う一一の相・皆百福荘厳なり、肉髻・白毫なんど申すは菓の如し因位の華の功徳等と成つて三十二相を備え給う、乃至無見頂相と申すは釈迦仏の御身は丈六なり竹杖外道は釈尊の御長をはからず御頂を見奉らんとせしに御頂を見たてまつらず、応持菩薩も御頂を見たてまつらず、大梵天王も御頂をば見たてまつらず、これは・いかなるゆへぞと・たづぬれば父母・師匠・主君を頂を地につけて恭敬し奉りしゆへに此の相を感得せり。

乃至梵音声と申すは仏の第一の相なり、小王・大王・転輪王等・此の相を一分備へたるゆへに此の王の一言に国も破れ国も治まるなり、宣旨と申すは梵音声の一分なり、万民の万言・一王の一言に及ばず、則ち三墳・五典なんど申すは小王の御言なり、此の小国を治め乃至大梵天王三界の衆生を随ふる事・仏の大梵天王・帝釈等をしたがへ給う事もこの梵音声なり、此等の梵音声一切経と成つて一切衆生を利益す、其の中に法華経は釈迦如来の書き顕して此の御音を文字と成し給う仏の御心はこの文字に備れり、たとへば種子と苗と草と稲とは・かはれども心はたがはず。

釈迦仏と法華経の文字とはかはれども心は一つなり、然れば法華経の文字を拝見せさせ給うは生身の釈迦如来にあひ進らせたりと・おぼしめすべし、此の志佐渡の国までおくり・つかはされたる事すでに釈迦仏知し食し畢ん


ぬ、実に孝養の詮なり、恐恐謹言。

  文永九年 月 日                  日蓮在御判

   四条三郎左衛門尉殿御返事

経王御前御書

                    文永九年 五十一歳御作

種種御送り物給び候い畢んぬ、法華経第八・妙荘厳王品と申すには妙荘厳王・浄徳夫人と申す后は浄蔵・浄眼と申す太子に導かれ給うと説かれて候、経王御前を儲させ給いて候へば現世には跡をつぐべき孝子なり後生には又導かれて仏にならせ給うべし、今の代は濁世と申して乱れて候世なり、其の上・眼前に世の中乱れて見え候へば皆人今生には弓箭の難に値いて修羅道におち後生には悪道疑なし。

而るに法華経を信ずる人人こそ仏には成るべしと見え候へ、御覧ある様にかかる事出来すべしと見へて候、故に昼夜に人に申し聞かせ候いしを用いらるる事こそなくとも科に行はるる事は謂れ無き事なれども、古も今も人の損ぜんとては善言を用いぬ習なれば終には用いられず世の中亡びんとするなり、是れ偏えに法華経・釈迦仏の御使を責むる故に梵天・帝釈・日月・四天等の責を蒙つて候なり、又世は亡び候とも日本国は南無妙法蓮華経とは人ごとに唱へ候はんずるにて候ぞ、如何に申さじと思うとも毀らん人には弥よ申し聞かすべし、命生て御坐ば御覧有るべし、又如何に唱うとも日蓮に怨をなせし人人は先ず必ず無間地獄に堕ちて無量劫の後に日蓮の弟子と成つて成仏す可し、恐恐謹言。

   四条金吾殿御返事                 日蓮花押