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日蓮大聖人・池田大作

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松野殿御返事 
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経にはあひがたきに譬へたり、たとひ栴檀には値うとも相応したる穴にあひがたきに喩うるなり、設ひ法華経には値うとも肝心たる南無妙法蓮華経の五字をとなへがたきにあひたてまつる事の・かたきにたとう、東を西と見・北を南と見る事をば我れ等衆生かしこがほに智慧有る由をして勝を劣と思ひ劣を勝と思ふ、得益なき法をば得益あると見る・機にかなはざる法をば機に・かなう法と云う、真言は勝れ法華経は劣り真言は機にかなひ法華経は機に叶はずと見る是なり。

されば思いよらせ給へ仏・月氏国に出でさせ給いて一代聖教を説かせ給いしに四十三年と申せしに始めて法華経を説かせ給ふ、八箇年が程・一切の御弟子皆如意宝珠のごとくなる法華経を持ち候き、然れども日本国と天竺とは二十万里の山海をへだてて候しかば法華経の名字をだに聞くことなかりき、釈尊御入滅ならせ給いて一千二百余年と申せしに漢土へ渡し給ふ、いまだ日本国へは渡らず、仏滅後一千五百余年と申すに日本国の第三十代・欽明天皇と申せし御門の御時・百済国より始めて仏法渡る、又上宮太子と申せし人唐土より始めて仏法渡させ給いて其れより以来今に七百余年の間・一切経並に法華経は・ひろまらせ給いて、上一人より下万人に至るまで心あらむ人は法華経を一部或は一巻或は一品持ちて或は父母の孝養とす、されば我等も法華経を持つと思う、しかれども未だ口に南無妙法蓮華経とは唱へず信じたるに似て信ぜざるが如し、譬えば一眼の亀のあひがたき栴檀の聖木には・あいたれども・いまだ亀の腹を穴に入れざるが如し、入れざればよしなし須臾に大海にしづみなん、我が朝七百余年の間此の法華経弘まらせ給いて或は読む人或は説く人或は供養せる人或は持つ人稲麻竹葦よりも多し、然れどもいまだ阿弥陀の名号を唱うるが如く南無妙法蓮華経とすすむる人もなく唱うる人もなし、一切の経一切の仏の名号を唱うるは凡木にあうがごとし、未だ栴檀ならざれば腹をひやさず・日天ならざれば甲をもあたためず、但目をこやし心を悦ばしめて実なし華さいて菓なく言のみ有りてしわざなし。


但日蓮一人ばかり日本国に始めて是を唱へまいらする事、去ぬる建長五年の夏のころより今に二十余年の間・昼夜朝暮に南無妙法蓮華経と是を唱うる事は一人なり、念仏申す人は千万なり、予は無縁の者なり念仏の方人は有縁なり高貴なり、然れども師子の声には一切の獣・声を失ふ虎の影には犬恐る、日天東に出でぬれば万星の光は跡形もなし、法華経のなき所にこそ弥陀念仏はいみじかりしかども南無妙法蓮華経の声・出来しては師子と犬と日輪と星との光くらべのごとし、譬えば鷹と雉との・ひとしからざるがごとし、故に四衆とりどりにそねみ上下同くにくむ讒人国に充満して奸人土に多し故に劣を取りて勝をにくむ、譬えば犬は勝れたり師子をば劣れり星をば勝れ日輪をば劣るとそしるが如し・然る間邪見の悪名世上に流布し・ややもすれば讒訴し或は罵詈せられ或は刀杖の難をかふる或は度度流罪にあたる、五の巻の経文にすこしもたがはず、さればなむだ左右の眼にうかび悦び一身にあまれり。

ここに衣は身をかくしがたく食は命をささへがたし、例せば蘇武が胡国にありしに雪を食として命をたもつ、伯夷は首陽山にすみし蕨ををりて身をたすく父母にあらざれば誰か問うべき三宝の御助にあらずんば・いかでか一日片時も持つべき未だ見参にも入らず候人のかやうに度度・御をとづれの・はんべるは・いかなる事にや・あやしくこそ候へ、法華経の第四の巻には釈迦仏・凡夫の身にいりかはらせ給いて法華経の行者をば供養すべきよしを説かれて候、釈迦仏の御身に入らせ給い候か又過去の善根のもよをしか、竜女と申す女人は法華経にて仏に成りて候へば末代に此の経を持ちまいらせん女人をまほらせ給うべきよし誓わせ給いし、其の御ゆかりにて候か、貴し貴し。

  弘安二年己卯三月二十六日              日蓮花押

   松野殿後家尼御前御返事


松野殿女房御返事

麦一箱・いゑのいも一籠・うり一籠・旁の物六月三日に給候しを今まで御返事申し候はざりし事恐れ入つて候、此の身延の沢と申す処は甲斐の国の飯井野・御牧・波木井の三箇郷の内・波木井の郷の戌亥の隅にあたりて候、北には身延の嶽・天をいただき南には鷹取が嶽・雲につづき東には天子の嶽日とたけをなじ西には又峨峨として大山つづきて・しらねの嶽にわたれり、猨のなく音天に響き蝉のさゑづり地にみてり、天竺の霊山此の処に来れり唐土の天台山親りここに見る、我が身は釈迦仏にあらず天台大師にてはなけれども、まかる・まかる昼夜に法華経をよみ朝暮に摩訶止観を談ずれば霊山浄土にも相似たり・天台山にも異ならず。

但し有待の依身なれば著ざれば風・身にしみ・食ざれば命持ちがたし、灯に油をつがず火に薪を加へざるが如し命いかでかつぐべきやらん、命続がたく・つぐべき力絶えては、或は一日乃至・五日既に法華経読誦の音も絶えぬべし止観のまどの前には草しげりなん、かくの如く候にいかにして思い寄らせ給いぬらん、兎は経行の者を供養せしかば天帝哀みをなして月の中にをかせ給いぬ・今天を仰ぎ見るに月の中に兎あり。

されば女人の御身としてかかる濁世末代に法華経を供養しましませば、梵王も天眼を以て御覧じ帝釈は掌を合わせてをがませ給ひ地神は御足をいただきて喜び釈迦仏は霊山より御手をのべて御頂をなでさせ給うらん、南無妙法蓮華経・南無妙法蓮華経、恐恐謹言。

  弘安二年己卯六月二十日               日蓮花押

   松野殿女房御返事