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日蓮大聖人・池田大作

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曾谷殿御返事  (2/2) 法華経の敵を見ながら置いてせめずんば師檀と…
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も誤ある者をば捨つべし又捨てざる義も有るべし世間・仏法の道理によるべきなり、末世の僧等は仏法の道理をば・しらずして我慢に著して師をいやしみ檀那をへつらふなり、但正直にして少欲知足たらん僧こそ真実の僧なるべけれ、文句の一に云く「既に未だ真を発さざれば第一義天に慙じ諸の聖人に愧ず即是れ有羞の僧なり観慧若し発するは即真実の僧なり」云云、涅槃経に云く「若し善比丘あつて法を壊る者を見て置いて呵責し駈遣し挙処せずんば当に知るべし是の人は仏法の中の怨なり、若し能く駈遣し呵責し挙処せんは是れ我が弟子真の声聞なり」云云、此の文の中に見壊法者の見と置不呵責の置とを能く能く心腑に染む可きなり、法華経の敵を見ながら置いてせめずんば師檀ともに無間地獄は疑いなかるべし、南岳大師の云く「諸の悪人と倶に地獄に堕ちん」云云、謗法を責めずして成仏を願はば火の中に水を求め水の中に火を尋ぬるが如くなるべしはかなし・はかなし、何に法華経を信じ給うとも謗法あらば必ず地獄にをつべし、うるし千ばいに蟹の足一つ入れたらんが如し、毒気深入・失本心故は是なり、経に云く「在在諸の仏土に常に師と倶に生ぜん」又云く「若し法師に親近せば速かに菩薩の道を得ん是の師に随順して学せば恒沙の仏を見たてまつることを得ん」釈に云く「本此の仏に従つて初めて道心を発し亦此の仏に従つて不退地に住す」又云く「初め此の仏菩薩に従つて結縁し還此の仏菩薩に於て成就す」云云、返す返すも本従たがへずして成仏せしめ給うべし、釈尊は一切衆生の本従の師にて而も主親の徳を備へ給う、此法門を日蓮申す故に忠言耳に逆う道理なるが故に流罪せられ命にも及びしなり、然どもいまだこりず候法華経は種の如く仏はうへての如く衆生は田の如くなり、若し此等の義をたがへさせ給はば日蓮も後生は助け申すまじく候、恐恐謹言。

  建治二年丙子八月三日                日蓮花押

   曾谷殿


曾谷入道殿御返事

                    建治三年 五十六歳御作

妙法蓮華経一部一巻小字経御供養のために御布施に小袖二重・鵞目十貫・並びに扇百本、文句の一に云く「如是とは所聞の法体を挙ぐ」と記の一に云く「若し超八の如是に非ずんば安ぞ此の経の所聞と為さん」と云云、華厳経の題に云く「大方広仏・華厳経・如是我聞」云云、「摩訶般若波羅蜜経・如是我聞」云云、大日経の題に云く「大毘盧遮那・神変加持経・如是我聞」云云、一切経の如是は何なる如是ぞやと尋ぬれば上の題目を指して如是とは申すなり、仏何の経にても・とかせ給いし其の所詮の理をさして題目とはせさせ給いしを、阿難・文殊・金剛手等・滅後に結集し給いし時題目をうちをいて如是我聞と申せしなり、一経の内の肝心は題目におさまれり例せば天竺と申す国あり九万里・七十箇国なり然れども其中の人畜・草木・山河・大地・皆月氏と申す二字の内にれきれきたり、譬えば一四天下の内に四洲あり其の中の一切の万物は月に移りてすこしもかくるる事なし、経も又是くの如く其の経の中の法門は其の経の題目の中にあり、阿含経の題目は一経の所詮・無常の理をおさめたり、外道の経の題目のあうの二字にすぐれたる事百千万倍なり、九十五種の外道・阿含経の題目を聞いてみな邪執を倒し無常の正路におもむきぬ、般若経の題目を聞いては体空・但中・不但中の法門をさとり華厳経の題目を聞く人は但中・不但中のさとりあり、大日経・方等・般若経の題目を聞く人は或は折空・或は体空・或は但空或は不但空・或は但中・不但中の理をばさとれどもいまだ十界互具・百界千如・三千世間の妙覚の功徳をばきかず、その詮を説かざれば法華経より外は理即の凡夫なり、彼の経経の仏・菩薩はいまだ法華経の名字即に及ばず何に況や題目をも唱へざれば観行即にいたるべしや、故に妙楽大師の記に云く「若し超八の如是に非ずんば安んぞ此の経の所聞と為さん」云云、


彼彼の諸経の題目は八教の内なり網目の如し、此の経の題目は八教の網目に超えて大綱と申す物なり、今妙法蓮華経と申す人人はその心をしらざれども法華経の心をうるのみならず一代の大綱を覚り給へり、例せば一二三歳の太子・位につき給いぬれば国は我が所領なり摂政・関白已下は我が所従なりとはしらせ給はねども、なにも此の太子の物なり、譬えば小児は分別の心なけれども悲母の乳を口にのみぬれば自然に生長するを趙高が様に心おごれる臣下ありて太子をあなづれば身をほろぼす、諸経・諸宗の学者等・法華経の題目ばかりを唱うる太子をあなづりて趙高が如くして無間地獄に堕つるなり、又法華経の行者の心もしらず題目計りを唱うるが諸宗の智者におどされて退心をおこすはこがいと申せし太子が趙高におどされ・ころされしが如し。

南無妙法蓮華経と申すは一代の肝心たるのみならず法華経の心なり体なり所詮なり、かかるいみじき法門なれども仏滅後・二千二百二十余年の間・月氏に付法蔵の二十四人弘通し給はず、漢土の天台妙楽も流布し給はず、日本国には聖徳太子・伝教大師も宣説し給はず、されば和法師が申すは僻事にてこそ有るらめと諸人疑いて信ぜず是れ又第一の道理なり、譬えば昭君なんどをあやしの兵なんどが・おかしたてまつるを・みな人よも・さはあらじと思へり、大臣公卿なんどの様なる天台・伝教の弘通なからん法華経の肝心・南無妙法蓮華経を和法師程のものがいかで唱うべしと云云、汝等是を知るや烏と申す鳥は無下のげす鳥なれども鷲鵰の知らざる年中の吉凶を知れり、蛇と申す虫は竜象に及ばずとも七日の間の洪水を知るぞかし、設い竜樹天台の知り給はざる法門なりとも経文顕然ならばなにをか疑はせ給うべき、日蓮をいやしみて南無妙法蓮華経と唱えさせ給はぬは小児が乳をうたがふて・なめず病人が医師を疑いて薬を服せざるが如し、竜樹・天親等は是を知り給へども時なく機なければ弘通し給わざるか、余人は又しらずして宣伝せざるか、仏法は時により機によりて弘まる事なれば云うにかひなき日