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日蓮大聖人・池田大作

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顕謗法抄  (6/18) 法華経の行者を悪口し及び杖を以て打擲せるも…
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や、答えて云く誹謗正法の重罪なり、問うて云く証文如何、答えて云く法華経第二に云く「若し人信ぜずして此の経を毀謗せば乃至其の人命終して阿鼻獄に入らん」等と云云、此の文に謗法は阿鼻地獄の業と見へたり、問うて云く五逆と謗法と罪の軽重如何、答て云く大品経に云く「舎利弗仏に白して言く世尊五逆罪と破法罪と相似するや、仏舎利弗に告わく相似と言うべからず所以は何ん若し般若波羅蜜を破れば則ち十方諸仏の一切智一切種智を破るに為んぬ、仏宝を破るが故に法宝を破るが故に僧宝を破るが故に三宝を破るが故に則ち世間の正見を破す世間の正見を破れば○則ち無量無辺阿僧祗の罪を得るなり無量無辺阿僧祗の罪を得已つて則ち無量無辺阿僧祗の憂苦を受るなり」文又云く「破法の業因縁集るが故に無量百千万億歳大地獄の中に堕つ、此の破法人の輩一大地獄より一大地獄に至る若し劫火起る時は他方の大地獄の中に至る、是くの如く十方に徧くして彼の間に劫火起る故に彼より死し破法の業因縁未だ尽きざるが故に是の間の大地獄の中に還来す」等と云云、法華経第七に云く「四衆の中に瞋恚を生じ心不浄なる者有り悪口罵詈して言く是れ無智の比丘と、或は杖木瓦石を以て之れを打擲す乃至千劫阿鼻地獄に於て大苦悩を受く」等と云云、此の経文の心は法華経の行者を悪口し及び杖を以て打擲せるもの其の後に懺悔せりといえども罪いまだ滅せずして千劫・阿鼻地獄に堕ちたりと見えぬ、懺悔せる謗法の罪すら五逆罪に千倍せり況や懺悔せざらん謗法にをいては阿鼻地獄を出ずる期かたかるべし、故に法華経第二に云く「経を読誦し書持すること有らん者を見て軽賤憎嫉して結恨を懐かん乃至其の人命終して阿鼻獄に入り一劫を具足して劫尽きなば更生れん、是くの如く展転して無数劫に至らん」等と云云。

第三に問答料簡を明さば問うて云く五逆罪と謗法罪との軽重はしんぬ謗法の相貌如何、答えて云く天台智者大師の梵網経の疏に云く謗とは背なり等と云云、法に背くが謗法にてはあるか天親の仏性論に云く若し憎は背くなり等と云云、この文の心は正法を人に捨てさせるが謗法にてあるなり、問うて云く委細に相貌をしらんとを


もうあらあら・しめすべし、答えて云く涅槃経第五に云く「若し人有りて如来は無常なりと言わん云何ぞ是の人舌堕落せざらん」等云云、此の文の心は仏を無常といはん人は舌堕落すべしと云云、問うて云く諸の小乗経に仏を無常と説かるる上又所化の衆皆無常と談じき若爾らば仏・並に所化の衆の舌堕落すべしや、答えて云く小乗経の仏を小乗経の人が無常ととき談ずるは舌ただれざるか、大乗経に向つて仏を無常と談じ小乗経に対して大乗経を破するが舌は堕落するか、此れをもつて・をもうにをのれが依経には随えども依経より・すぐれたる経を破するは破法となるか、若爾らば設い観経・華厳経等の権大乗経の人人・所依の経の文の如く修行すともかの経にすぐれたる経経に随はず又すぐれざる由を談ぜば謗法となるべきか、されば観経等の経の如く法をえたりとも観経等を破せる経の出来したらん時・其の経に随わずば破法となるべきか、小乗経を以て・なぞらえて心うべし。

問うて云く雙観経等に乃至十念・即得往生なんと・とかれて候が彼のけうの教の如く十念申して往生すべきを後の経を以て申しやぶらば謗法にては候まじきか、答えて云く仏・観経等の四十余年の経経を束て未顕真実と説かせ給いぬれば此の経文に随つて乃至十念・即得往生等は実には往生しがたしと申す此の経文なくば謗法となるべし、問うて云く或人云く無量義経の四十余年未顕真実の文はあえて四十余年の一切の経経・並に文文・句句を皆未顕真実と説き給にはあらず、但四十余年の経経に処処に決定性の二乗を永不成仏ときらはせ給い釈迦如来を始成正覚と説き給しを其の言ばかりをさして未顕真実とは申すなりあえて余事にはあらず、而るをみだりに四十余年の文を見て観経等の凡夫のために九品往生なんぞを説きたるを妄りに往生はなき事なりなんど押し申すあに・をそろしき謗法の者にあらずや・なんど申すはいかに、答えて云く此の料簡は東土の得一が料簡に似たり、得一が云く未顕真実とは決定性の二乗を仏・爾前の経にして永不成仏ととかれしを未顕真実とは嫌はるるなり前四味の一切には亘るべからずと申しき、伝教大師は前四味に亘りて文文句句に未顕真実と立て給いき、さればこの料簡


は古の謗法者の料簡に似たり、但し且く汝等が料簡に随て尋ね明らめん、問う法華已前に二乗作仏を嫌いけるを今未顕真実というとならば先ず決定性の二乗を仏の永不成仏と説かせ給し処処の経文ばかりは未顕真実の仏の妄語なりと承伏せさせ給うか、さては仏の妄語は勿論なり若し爾らば妄語の人の申すことは有無共に用いぬ事にてあるぞかし、決定性の二乗・永不成仏の語ばかり妄語となり若し余の菩薩・凡夫の往生成仏等は実語となるべきならば信用しがたき事なり、譬へば東方を西方と妄語し申さん人は西方を東方と申すべし二乗を永不成仏と説く仏は余の菩薩の成仏をゆるすも又妄語にあらずや、五乗は但一仏性なり二乗の仏性をかくし菩薩・凡夫の仏性をあらはすは返つて菩薩・凡夫の仏性をかくすなり。

有人云く四十余年未顕真実とは成仏の道ばかり未顕真実なり往生等は未顕真実にはあらず、又難じて云く四十余年が間の説の成仏を未顕真実と承伏せさせ給はば雙観経に云う不取正覚成仏已来凡歴十劫等の文は未顕真実と承伏せさせ給うか、若し爾らば四十余年の経経にして法蔵比丘の阿弥陀仏になり給はずば法蔵比丘の成仏すでに妄語なり、若し成仏妄語ならば何の仏か行者を迎え給うべきや、又かれ此の難を通して云ん四十余年が間は成仏はなし阿弥陀仏は今の成仏にはあらず過去の成仏なり等と云云、今難じて云く今日の四十余年の経経にして実の凡夫の成仏を許されずば過去遠遠劫の四十余年の権経にても成仏叶いがたきか、三世の諸仏の説法の儀式皆同きが故なり、或は云く不得疾成・無上菩提ととかるれば四十余年の経経にては疾くこそ仏にはならねども遅く劫を経てはなるか、難じて云く次下の大荘厳菩薩等の領解に云く「不可思議無量無辺阿僧祗劫を過るとも終に無上菩提を成ずることを得ず」等と云云、此の文の如くならば劫を経ても爾前の経計りにては成仏はかたきか。

有は云う華厳宗の料簡に云く四十余年の内には華厳経計りは入るべからず、華厳経にすでに往生成仏此ありなんぞ華厳経を行じて往生成仏をとげざらん、答えて云く四十余年の内に華厳経入るべからずとは華厳宗の人師の