Nichiren・Ikeda

Search & Study

日蓮大聖人・池田大作

検索 & 研究 ver.9

妙密上人御消息  (3/5) 此の人末法に出現して妙法蓮華経の五字を一閻…
1239

いまだ本門の肝心たる題目を譲られし上行菩薩世に出現し給はず、此の人末法に出現して妙法蓮華経の五字を一閻浮提の中・国ごと人ごとに弘むべし、例せば当時・日本国に弥陀の名号の流布しつるが如くなるべきか。

然るに日蓮は何の宗の元祖にもあらず・又末葉にもあらず・持戒破戒にも闕て無戒の僧・有智無智にもはづれたる牛羊の如くなる者なり、何にしてか申し初めけん・上行菩薩の出現して弘めさせ給うべき妙法蓮華経の五字を先立て・ねごとの様に・心にもあらず・南無妙法蓮華経と申し初て候し程に唱うる者なり、所詮よき事にや候らん・又悪き事にや侍るらん・我もしらず人もわきまへがたきか、但し法華経を開いて拝し奉るに・此の経をば等覚の菩薩・文殊・弥勒・観音・普賢までも輙く一句一偈をも持つ人なし、「唯仏与仏」と説き給へり、されば華厳経は最初の頓説・円満の経なれども法慧等の四菩薩に説かせ給ふ、般若経は又華厳経程こそなけれども当分は最上の経ぞかし、然れども須菩提これを説く、但法華経計りこそ三身円満の釈迦の金口の妙説にては候なれ、されば普賢・文殊なりとも輙く一句一偈をも説かせ給うべからず、何に況や末代の凡夫我等衆生は一字二字なりとも自身には持ちがたし、諸宗の元祖等・法華経を読み奉れば各各其の弟子等は我が師は法華経の心を得給へりと思へり、然れども詮を論ずれば慈恩大師は深密経・唯識論を師として法華経をよみ、嘉祥大師は般若経・中論を師として法華経をよむ、杜順・法蔵等は華厳経・十住毘婆沙論を師として法華経をよみ、善無畏・金剛智・不空等は大日経を師として法華経をよむ、此等の人人は各法華経をよめりと思へども未だ一句一偈もよめる人にはあらず、詮を論ずれば伝教大師ことはりて云く「法華経を讃すと雖も還つて法華の心を死す」云云、例せば外道は仏経をよめども外道と同じ・蝙蝠が昼を夜と見るが如し、又赤き面の者は白き鏡も赤しと思ひ・太刀に顔をうつせるもの円かなる面を・ほそながしと思ふに似たり。

今日蓮は然らず已今当の経文を深くまほり・一経の肝心たる題目を我も唱へ人にも勧む、麻の中の蓬・墨うてる


木の自体は正直ならざれども・自然に直ぐなるが如し、経のままに唱うれば・まがれる心なし、当に知るべし仏の御心の我等が身に入らせ給はずば唱へがたきか、又それ他人の弘めさせ給ふ仏法は皆師より習ひ伝へ給へり、例せば鎌倉の御家人等の御知行・所領の地頭・或は一町・二町なれども皆故大将家の御恩なり、何に況や百町・千町・一国・二国を知行する人人をや、賢人と申すは・よき師より伝へたる人・聖人と申すは師無くして我と覚れる人なり、仏滅後・月氏・漢土・日本国に二人の聖人あり・所謂天台・伝教の二人なり、此の二人をば聖人とも云うべし又賢人とも云うべし、天台大師は南岳に伝えたり是は賢人なり、道場にして自解仏乗し給いぬ又聖人なり、伝教大師は道邃・行満に止観と円頓の大戒を伝へたりこれは賢人なり、入唐已前に日本国にして真言・止観の二宗を師なくしてさとり極め、天台宗の智慧を以て六宗・七宗に勝れたりと心得給いしは是れ聖人なり、然れば外典に云く「生れながらにして之を知る者は上なり上とは聖人の名なり学んで之を知る者は次なり次とは賢人の名なり」内典に云く「我が行・師の保無し」等云云、夫れ教主釈尊は娑婆世界第一の聖人なり、天台・伝教の二人は聖賢に通ずべし、馬鳴・竜樹・無著・天親等・老子・孔子等は或は小乗・或は権大乗・或は外典の聖賢なり、法華経の聖賢には非ず。

今日蓮は聖にも賢にも非ず持戒にも無戒にも有智にも無智も当らず、然れども法華経の題目の流布すべき後五百歳・二千二百二十余年の時に生れて・近くは日本国・遠くは月氏・漢土の諸宗の人人・唱へ始めざる先に・南無妙法蓮華経と高声によばはりて二十余年をふる間・或は罵られ打たれ或は疵をかうほり或は流罪に二度死罪に一度定められぬ、其の外の大難数をしらず・譬へば大湯に大豆を漬し小水に大魚の有るが如し、経に云く「而も此の経は如来の現在にすら猶怨嫉多し況や滅度の後をや」又云く「一切世間怨多くして信じ難し」又云く「諸の無智の人有りて悪口罵詈す」或は云く「刀杖瓦石を加え或は数数擯出せらる」等云云、此等の経文は日蓮・日本国に生ぜずんば但仏の御言のみ有りて其の義空しかるべし、譬へば花さき菓みならず雷なりて雨ふらざらんが如


し、仏の金言空くして正直の御経に大妄語を雑へたるなるべし、此等を以て思ふに恐くは天台伝教の聖人にも及ぶべし又老子孔子をも下しぬべし、日本国の中に但一人・南無妙法蓮華経と唱えたり、これは須弥山の始の一塵大海の始の一露なり、二人・三人・十人・百人・一国・二国・六十六箇国・已に島二にも及びぬらん、今は謗ぜし人人も唱へ給うらん、又上一人より下万民に至るまで法華経の神力品の如く一同に南無妙法蓮華経と唱へ給ふ事もやあらんずらん、木はしづかならんと思へども風やまず・春を留んと思へども夏となる、日本国の人人は法華経は尊とけれども日蓮房が悪ければ南無妙法蓮華経とは唱えまじと・ことはり給ふとも・今一度も二度も大蒙古国より押し寄せて壹岐・対馬の様に男をば打ち死し女をば押し取り・京・鎌倉に打ち入りて国主並びに大臣百官等を搦め取り・牛馬の前に・けたて・つよく責めん時は争か南無妙法蓮華経と唱へざるべき、法華経の第五の巻をもつて日蓮が面を数箇度打ちたりしは日蓮は何とも思はずうれしくぞ侍りし、不軽品の如く身を責め勧持品の如く身に当つて貴し貴し。

但し法華経の行者を悪人に打たせじと・仏前にして起請をかきたりし・梵王・帝釈・日月・四天等いかに口惜かるらん、現身にも天罰をあたらざる事は小事ならざれば・始中終をくくりて其の身を亡すのみならず議せらるるか、あへて日蓮が失にあらず・謗法の法師等をたすけんが為に彼等が大禍を自身に招きよせさせ給うか。

此等を以て思ふに便宜ごとの青鳧五連の御志は日本国の法華経の題目を弘めさせ給ふ人に当れり、国中の諸人・一人・二人・乃至千万億の人・題目を唱うるならば存外に功徳身にあつまらせ給うべし、其の功徳は大海の露をあつめ須弥山の微塵をつむが如し、殊に十羅刹女は法華経の題目を守護せんと誓わせ給う、此を推するに妙密上人並びに女房をば母の一子を思ふが如く・犛牛の尾を愛するが如く昼夜にまほらせ給うらん、たのもし・たのもし、事多しといへども委く申すにいとまあらず、女房にも委く申し給へ此は諂へる言にはあらず、金はやけば弥