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日蓮大聖人・池田大作

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御講聞書  (19/41) 法華経を弘むるを以て現世安穏・後生善処と申…
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云云。

一現世安穏後生善処の事

仰に云く所詮此の妙法蓮華経を聴聞し奉るを現世安穏とも後生善処とも云えり、既に上に聞是法已と説けり聞は名字即の凡夫なり妙法を聞き奉る所にて即身成仏と聞くなり、若有能持即持仏身とは是なり、聞く故に持ち奉るの故に三類の強敵来る来るを以て現世安穏の記文顕れたり、法華の行者なる事疑無きなり、法華の行者はかかる大難に値うべしと見えたり、大難に値うを以て後生善処の成仏は決定せり是れ豈現世にして安穏なるに非ずや、後生善処は提婆品に分明に説けり、所詮現世安穏とは法華経を信じ奉れば三途八難の苦をはなれ善悪上下の人までも皆教主釈尊・同等の仏果を得て自身本覚の如来なりと顕す、自身の当体・妙法蓮華経の薬草なれば現世安穏なり、爰を開くを後生善処と云うなり、妙法蓮華経と云うは妙法の薬草なり、所詮現世安穏は色法・後生善処は心法なり、十界の色心・妙法と開覚するを現世安穏・後生善処とは云うなり、所詮法華経を弘むるを以て現世安穏・後生善処と申すなり云云。

一皆悉到於一切智地の事

仰に云く一切智地と云うは法華経なり、譬えば三千大千世界の土地・草木・人畜等・皆大地に備りたるが如くなり、八万法蔵・十二部経・悉く法華に帰入せしむるなり、皆悉の二字をば善人も悪人も迷も悟も一切衆生の悪業も善業も其の外薬師・大日・弥陀並びに地蔵・観音・横に十方・堅に三世有りとある諸仏の具徳・諸菩薩の行徳・惣じて十界の衆生の善悪・業作等を皆悉と説けり、是を法華経に帰入せしむるを一切智地の法華経と申すなり、されば文句の七に云く皆悉到於一切智地とは、地とは実相なり、究竟して二に非ず故に一と名くるなり、其の性広博なり、故に名けて切と為す、寂にして常照なり、故に名けて智と為す、無住の本より一切の法を立す、故に名けて地と為す、此れ円教の実説なり、凡そ所説有るは皆衆生をして此の智地に到らしむ云云、此の釈は一切智地の四字を委しく判ぜり、一をば究竟と云い切をば広博と釈し智をば寂而常照と云い


地をば無住之本と判ぜり、然るに凡有所説は約教を指し・皆令衆生は機縁を納るるなり、十界の衆生を指して切と云い凡有所説を指して、究竟非二故名一也と云えり、一とは三千大千世界・十方法界を云うなり、其の上に人畜等あるは地なり、記の七に云く、切を衆に訓ずと文、仍つて一切の二字に法界を尽せり、諸法は切なり実相は一なり、所詮・法界実相の妙体・照而常寂の一理にして十界三千・一法性に非ずと云う事なし是を一と説くなり、さて三千の諸法の己己に本分なれば切の義なり、然らば一は妙・切は法なり、妙法の二字・一切の二字なり、無住之本は妙の徳・立一切法は法の徳なり、一切智地とは南無妙法蓮華経是なり一切智地・即一念三千なり、今末法に入つて一切智地を弘通するは日蓮等の類い是なり、然るに一とは一念なり切とは三千なり、一心より松よ桜よと起るは切なり、是は心法に約する義なり、色法にては手足等は切なり、一身なるは一切なり、所詮色心の二法・一切智地にして南無妙法蓮華経なり云云。

一此の一切智地の四字

に法華経一部八巻文文句句を収めたり、此の一切智地とは三諦・一諦・非三非一なり、三智に約すれば空智なり、さては三諦とは云い難し、然りと雖も三諦・一諦の中の空智なり、されば三諦に於て三三九箇の三諦あり、先ず空諦にて三諦を云う時は空諦と呼出だすが仮諦・空諦なるは空諦なり・不二するは中道なり、三諦同じく此くの如く心得可きなり、所詮此の一切智地をば九識法性と心得可きなり、九識法性をば、迷悟不二・凡聖一如なれば空と云うなり、無分別智光を空と云うなり、此の九識法性とは、いかなる所の法界を指すや、法界とは十界なり、十界即諸法なり、此の諸法の当体・本有の妙法蓮華経なり、此の重に迷う衆生の為に、一仏現じて分別説三するは、九識本法の都を立出ずるなり、さて終に本の九識に引入する、夫れを法華経とは云うなり、一切智地とは是れなり、一切智地は我等衆生の心法なり心法即ち妙法なり一切智地とは是なり云云。


一根茎枝葉の事

仰に云く此の文をば釈には信戒定慧と云云、此の釈の心は草木は此の根茎枝葉を以て増長と云うなり、仏法修行するも又斯くの如し、所詮我等衆生・法華経を信じ奉るは根をつけたるが如し、法華経の文の如く是名持戒の戒体を本として、正直捨方便・但説無上道の如くなるは戒なり、法華経の文相にまかせて、法華三昧を修するは定なり、題目を唱え奉るは慧なり、所謂法界悉く生住異滅するは信・己己本分は戒・三世不改なるは定なり、各各の徳義を顕したるは慧なり、是れ即ち法界平等の根茎枝葉なり、是れ即ち真如実相の振舞なり、所謂戒定慧の三学・妙法蓮華経なり、此れを信ずるを根と云うなり、釈に云く三学倶に伝うるを名けて妙法と曰うと云云。

一根茎枝葉の事

仰に云く此れは我等が一身なり、根とは心法なり茎とは我等が頭より足に至るまでなり、枝とは手足なり、葉とは毛なり、此の四を根茎枝葉と説けり、法界三千此の四を具足せずと云う事なし、是れ即ち信戒定慧の体にして実相一理の南無妙法蓮華経の体なり、法華不信の人は根茎枝葉ありて増長あるべからず枯槁の衆生なるべし云云。

一枯槁衆生の事

仰に云く、法華経を持ち奉る者は、枯槁の衆生に非ざるなり、既に法華経の種子を受持し奉るが故なり、謗法不信の人は下種無き故に枯槁の衆生なり、されば、妙楽大師の云く、余教を以て種と為さず文。

一等雨法雨の事

仰に云く等とは平等の事なり、善人・悪人、二乗・闡提、正見・邪見等の者にも、妙法の雨を惜まず平等にふらすと云う事なり、されば法の雨を雨すと云う時は、大覚世尊ふらしてに成り給えり、さて、法の雨ふりてとよむ時は、本より実相平等の法雨は、常住本有の雨なれば、今始めてふるべきに非ず、されば、諸法実相を、譬喩品の時は風月に譬えたり、妙楽大師は何ぞ隠れ何ぞ顕れんと釈せり、実相の法雨は三世常恒に