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日蓮大聖人・池田大作

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念仏者追放宣旨御教書の事  (3/11) 音の哀楽を以て国の盛衰を知る
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和尚・宇佐の宮に参るに釈迦三尊の影・月の如くに顕れ仲算大徳・熊野山に詣るに飛滝千仭の水・簾の如くに巻く、凡そ行基・護命・増利・聖宝・空海・最澄・円珍等は皆神社に於て新に霊異を感ず是くの若きは源空に及ばざるの人か又魔界に堕つ可きの類か之を略す

山門の奏状に云く。

一、一向専修の党類・神明に向背する不当の事。

右我が朝は神国なり神道を敬うを以て国の勤めと為す謹んで百神の本を討ぬるに諸仏の迹に非ること無し、所謂伊勢大神宮・八幡・加茂・日吉・春日等は皆是れ釈迦・薬師・弥陀・観音等の示現なり各宿習の地を卜め専ら有縁の儀を調う乃至其の内証に随いて彼の法施を資け念誦・読経・神に依つて事異なり世を挙げて信を取り人毎に益を被る、而るに今専修の徒・事を念仏に寄せて永く神明を敬うこと無し、既に国の礼を失い仍神を無するの咎あり、当に知るべし有勢の神祗定めて降伏の眸を回らして睨みたまわん之を略す

一、一向専修和漢の例快からざる事

右慈覚大師の入唐巡礼記を按ずるに云く唐の武宗皇帝会昌元年章敬寺の鏡霜法師に勅令して諸寺に於て弥陀念仏の教を伝え寺毎に三日巡輪して絶えず同じく二年廻鶻国の軍兵等・唐の界を侵す同じく三年河北の節度使・忽ち乱を起す其の後大蕃国更に命を拒む廻鶻国重ねて地を奪いぬ、凡そ兵乱秦項の代に同じく災火邑里の際に起る何に況や武宗大に仏法を破し多く寺塔を滅す撥乱すること能わずして遂に以て事有り已上取意、是れ則ち恣に浄土の一門を信じて護国の諸教を仰がざるに依つてなり而るに吾朝一向専修を弘通してより以来・国衰微に属し俗多く艱難す已上之を略す、又云く音の哀楽を以て国の盛衰を知る詩の序に云く治世の音は安んじて以て楽しむ其の政和げばなり乱世の音は怨んで以て怒る其の政乖けばなり亡国の音は哀んで以て思う其の民困めばなりと云云、近代念


仏の曲を聞くに理世撫民の音に背き已に哀慟の響を成す是れ亡国の音なる可し是四、已上奏状。

山門の奏状詮を取る此の如し。

又大和の荘の法印俊範・宝地房の法印宗源・同坊の永尊竪者後に僧都と云う並に題者なり等源空が門徒を対治せんが為に各各子細を述ぶ其の文広本に在り、又諸宗の明徳面面に書を作りて選択集を破し専修を対治する書籍世に伝う。

宣旨篇

南都北嶺の訴状に依つて専修を対治し行者を流罪す可きの由度度の宣旨の内今は少を載せ多を省く委くは広本に在り。

永尊竪者の状に云く弾選択等上送せられて後・山上に披露す弾選択に於ては人毎に之を翫び顕選択は諸人之を謗ず法然上人の墓所は感神院の犬神人に仰付て之を破郤せしめ畢んぬ其の後奏聞に及んで裁許を蒙り畢んぬ、七月の上旬に法勝寺の御八講の次山門より南都に触れて云く清水寺・祇園の辺・南都山門の末寺たるの処に専修の輩身を容れし草菴に於ては悉く破郤せしめ畢んぬ其の身に於ては使庁に仰せて之を搦め取らるるの間・礼讃の声黒衣の色・京洛の中に都て以て止め畢んぬ、張本三人流罪に定めらると雖も逐電の間未だ配所に向わず山門今に訴え申し候なり。

此の十一日の僉議に云く法然房所造の選択は謗法の書なり天下に之を止め置く可からず仍つて在在所所の所持並に其の印板を大講堂に取り上げ三世の仏恩を報ぜんが為に焼失すべきの由奏聞仕り候い畢んぬ重ねて仰せ下され候か、恐恐。

  嘉禄三年十月十五日

専修念仏の張本成覚法師・讃岐の大手嶋に経回すと云云実否分明ならず慥に撿知を加えらる可きの由・山門の人


人申す相尋ね申さしめ給う可きの由殿下の御気色候う所なり仍つて執達件の如し。

  嘉禄三年十月二十日         参議範輔在り判

   修理権亮殿

関東より宣旨の御返事

隆寛律師の事、右大弁宰相家の御奉書披露候い畢んぬ、件の律師去る七月の比・下向せしむ鎌倉近辺に経回すると雖も京都の制符に任せ念仏者を追放せらるるの間奥州の方へ流浪せしめ畢んぬ云云、早く在所を尋ね捜して仰せ下さるるの旨に任せ対馬の嶋に追遣可きなり、此の旨を以て言上せしむ可きの状鎌倉殿の仰せに依つて執達件の如し。

  嘉禄三年十月十五日         武蔵守在り判

                    相模守在り判

   掃部助殿

   修理亮殿

専修念仏の事、停廃の宣下重畳の上偸かに尚興行するの条更に公家の知しめす所にあらず偏に有司の怠慢たり早く先符に任せて禁遏せらる可し、其の上衆徒の蜂起に於ては宜く制止を加えしめ給うべし天気に依つて言上件の如し、信盛・頓首恐惶謹言

  嘉禄三年六月二十九日        左衛門権佐信盛奉

  進上 天台座主大僧正御房政所

右弁官下す               延暦寺